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■ ファッション雑誌 | 2018. 9.29 |
最近外出する機会が多くて、東京・横浜・熊本市内・福岡と街に出かけてみての感想を少し述べてみたい。 それらの土地は同じ日本国とは言え人々のファッションの均一性には強く驚かせられる。 それぞれに個性的であろうとなさっておられるのであろうけれど全体として眺望すると皆さんオソロシク似たり寄ったりだ。 それもハッキリ言って一様に「ダサい」 何でそんな服着るの?揃いも揃って、と以前から不思議に思っていたが「犯人」が判明した。 それは女性向けのファッション雑誌だ。 本屋に行って久々に確認してみたが、巷で見かけるファッションよりもさらに数倍非道い衣類がこれまたマンガチックなメイクと痩せこけた、全く女性としての魅力が無いモデルさん達に着せられた写真がまるでまるで何かの全く芸術性の無い無意味で乱雑な「柄」や「模様」のように適当に書き散らした「落書き」のように掲載されている。 昔、筆者の大学時代に流行した「JJ」というファッション雑誌は今でも保存しているが、ヘタな芸術雑誌よりも素敵に美しいスタイルと容姿とファッションの女性の写真でかなり楽しませてもらったが、今はハッキリ言って妙チクリンというかキテレツというか奇怪というか美しい女性の着るシロモノではないコスチュームをワザワザ、ダサく着こなすように配列して堂々と展示してある。 全くもって信じられない。 特に色と柄だ。 メチャクチャな取り合わせで或る意味、感動する。 それでも中年女性向けの雑誌は多少マシになるが似たり寄ったりだ。 細すぎる肉体、とりわけ太股やヒップにピッタリした丈の短いジーンズ、長いカーデガンなど割と定型的な現代女性のファッションなどどう見てもオカシイ。 また風呂敷のように広々とした裾幅を持つアニメチックな昔のパンタロン風のパンツを見せられると心からゲンナリする。 次々と繰り出されるこれらの奇妙なファッションは着ている人を殆ど「美しく」見せないので、日本全国から美人が消えてしまったかのような実に嘆かわしい状況であるので残念過ぎて言葉を失う。 昔から「馬子にも衣裳」というではないか。 基本的にファッションというものは着ている本人を美しく素敵に見せる為の手法ではなかったのか・・・。 大いなる疑問を感じさせてくれる昨今のファッション雑誌の「体たらく」である。 一方、男性ファッション雑誌に目を移すといくらかマシになる。 昔は逆であった。 筆者などは若い頃、女性のファッション雑誌を参考に服を選んでいたがそれは色合わせとかデザインに巧みな類が多かったからで、今は逆になってとりあえず「ドレスコード」のある(スーツやネクタイや靴)などがまだ明確に残っていて、強く制限のかかっている男性の服装の定番が存している為かハチャメチャなファッションはあまりない。 男性の特に仕事を持っている人の場合、着ている人間の人品を疑われると職業上困るのでTPOを考えて衣服や装身具を選択しないとイケナイ事情がある。 これがそのファッション選択に幸いしていると思える。 事務服とかの制服でいると美しく見える人が私服になるとガッカリというケースが特に女性に多いのはとても残念なことである。 ファッションというのは結構アタマも使う。 コスト、色、デザイン、顔うつり、体形や髪や年齢のマッチングなどバランス感覚と美的センス、金銭感覚などかなり高度な思考力が必要である。 持論であるが日本人の場合、多く短軀であるので基本的にセパレート(上下で色やデザインが異なる)は避けた方が良い。 短い丈がさらに短く見えるからだ。 上下同色か同じようなデザインの色柄が望ましい。 同じ柄、同じ色のワンピースなどが一番無難である。 先日の東京行きでも街中で見かけた瞬間的に美人に見えた女性はいずれもワンピースであった。 それもそれぞれ緑の単色、花柄であった。 ジッと見るとそれほどの美人でもないのにファッションとカラダツキと髪型で遠めに美人に見えたのだ。 ここで提案である。 余計なお世話かも知れないが 「ファッション雑誌は参考にしないようにしましょう」 『「自分を美しく見せる」という明確なコンセプトをファッションに取り入れましょう』 よもやテレビタレントやファッション雑誌のモデルを目標に自分の体形とファッションを選択しないことが肝要と思える。 筆者は個人的にそうしている。 美しい人は美しい。 醜いものは醜い。 美意識とか美的感覚の問題が残るがこれは天性もあるが或る程度は努力によって磨くことができる。 本屋に行って丹念にファッション雑誌でないファッションの本を買って読むというアイデアもある。少なくとも自分のファッションの参考に「ファッション雑誌」を用いない方が良いと見られるのは情けない事態と思える。ごく個人的に。 ありがとうございました M田朋玖 |