コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 横浜物語2018. 9.22

学会開催場所の関係で久々に横浜に一泊した。
「パシフィコ横浜」
最近流行の複合施設だ。
ホテル、会議場、ショッピングモール、イベント会場、遊園地などが巧みに配置されている。
案内板を見ないと迷ってしまう。
丁度イオンなどのショッピングモールと同じような構造を進化させた建造物である。
集合看板を眺めると医療系クリニックも数件入っている。

筆者の出身は横浜市西区となっている。
これは或る手続きの時に戸籍謄本を手にする要があり、あらためて確認したのでマチガイナイ。
出身というのは日本でも出生地であるらしい。
即ち出生届を提出した土地の住所が記されているようだ。
出自を少し簡単に記しておくと実父の「実」の父(実祖父)は筆者の出生当時、横浜市に住していて大工の棟梁をしていたらしい。
25歳で医師免許を取得して最初に赴任したのが横浜市の病院であったようだ。
当時はインターン制度があって2年間ほど今でいう研修医のような身分で民間の病院に勤務していたようである。

勿論「実」の父親が横浜に在住していたこともその勤務地・横浜市を選択した遠因と想像される。

・・・そんな経緯からか横浜をおとずれると不思議に心癒やされ、懐旧が心の奥底に湧き上がるのを感じる。
山下公園、中華街、人形町・・・ランダムにめぐる帰りにタマタマ乗ってしまったホテルの空港リムジンから眺望するそれらの街並みの風景は初めて見る筈であるのに奇妙なほど「懐かしい」と感じる。

生下時より3歳くらいまでしか住んでいなかったと聞いているけれど、脳の構造と発達を思慮すると記憶の刻印の度合いは近々よりも深い筈であるので、潜在意識をそれらが強烈に刺激するのかひどく子煩悩であった父のことが脳裏によみがえり、バスの車中、不覚にも落涙してしまった。
黒澤明監督の主に横浜を舞台に描かれた映画「天国と地獄」を繰り返し愛賞するのは、この幼児期の心地良い記憶を無意識に刺激されるからかも知れない。

件の映画では昔の横浜の風俗や風景が次々と映し出され、とりわけ主人公ではないが脇役の山崎努が貧乏医者を演じていて、いかにも貧しげな長屋のオンボロアパート住まいや病院、いかにも貧し気な当時の人々の暮らしぶりに潜在意識が同調するのだ。
多分。

実際に筆者の出生年はとても寒く貧乏住まいに雪が降り込んで枕元に積もっていた・・・というような有様であったらしい。

8人兄弟の2男であった父は3歳で横浜の実両親から引き離され九州の山の中、人吉市よりさらに山奥に向かって進んだ多良木町に在していた子供のいない叔父夫婦(実祖父の長兄)の養子となった。
これは心理学的には大変なトラウマ(心の傷)で、理不尽にも残酷に親に「捨てられた」強烈な悲しみ、怒り、寂しさなどがあったのではないかと想像される。

さらに後から判明したことであるが、養父母と父の相性が悪く幼時に生きていた祖母の存在が救いだったようなフシがある。
大都会・横浜からするとトンデモナイ田舎で兄弟もなく一人息子の養子なんて想像しただけでゾッとする話である。
相当に辛く寂しい思いをしたに違いない。
勉強が好きで「勉強しても何にもならん」と主張していた祖母に隠れて広い屋敷の押し入れの中や通学の鉄道列車の中で勉強をしていたらしい。

その隠れ勉強のお陰もあってか学業成績は優秀であったらしく、戦前の花形であった職業軍人になるべく東京市ヶ谷の陸軍士官学校(陸士)に入学した。
当時は東京や京都帝大以外に江田島の海軍兵学校(海兵)に少し劣るもののエリートへの道を選択し実行したワケである。
父親の同年輩(S2年生まれ)の旧制人吉中学は優秀な生徒が多かったようで陸士、海兵以外にも旧帝大などの入学者が多かったと聞く。
昭和の初期というと大恐慌の時代で、東北地方を中心に貧農の娘の身売りの問題があったりして昭和7年、11年にそれぞれ起こった515(5月15日)事件、226(2月26日)事件などの発生母地になっている荒れた社会状況ではあったようだ。
地方の農家や地方そのものの経済が疲弊していた時代で最近もだんだんその頃に似てきている。

陸士在学中に終戦になり、戦争に行かずに済んだものの故郷にその学力に見合った大した仕事はない。
そこで農地改革を免れた山林を売ったお金で学校に行くことになった。

鹿児島医学専門学校(現鹿児島大学医学部)。
要するに「手に職をつける」為の実業学校でとりあえず生きていく術を身につけようと目論んだワケである。
倍率200倍と言われた難関を見事突破して入学を果たし、無事に卒業し医師免許を取り、母と見合結婚をし、実父母を頼って横浜に赴き筆者を産んだ。

この一つの昭和初期からちょうど50年の父の人生物語はかなりの波乱を包含しながら二代目にバトンを渡す前に卒然と幕を閉じてしまった。
他界直後は過量飲酒や不規則な労働が父の生命を奪ったと理解していたが、今考えるとそれほど単純なモノではない。
幼少期のトラウマ、霊的行動の貧弱さ、生来持っている生命力の先細りなど筆者の研究では父の短命にもハッキリとした理由も根拠もあり今は殆んど何の疑問もなく明々白々とした筋道を立てて理解している。

戦前と戦後という明治維新にも匹敵する歴史の分岐点をまたいで駆け抜けた父の人生も昭和という時代を全うすることなく平成になる10年前、即ち昭和53年にひとまず終幕。築いた診療所も後継者に引き継がれて併せて60年に余すところ3年になった。
上記のような父子2代の幼児期、それも3歳までがはからずも横浜で過ごせられたことが、偶然にしては出来過ぎている。
確認してはいないが父の出身地も法規上は横浜になっているはずた。

神奈川県の平塚市に在する東海大学へ進み、半年間は横浜の叔父の家から通学した。
その叔父(父の兄)も昨年100寿を前に他界した。
叔母はまだ存命のようである。

あまり好きではない歌手、中村雅俊の「恋人も濡れる街角」も筆者のオハコになってしまった。
ヨコハマじゃ今〜♪

品川ナンバーのクルマと同様に「横浜出身」という「ブランド」も筆者にとってそれほど軽々なものではないとあらためて気づかされた。

ありがとうございました
M田朋玖



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