コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ Friend2018. 8. 5

或る偶然の出逢いから大ファンでもある玉置浩二「安全地帯」のリハーサルを生で聴けることになった。
7月の木曜日の午後3時。
福岡市のコンサートホールでのソレはとても素晴らしいもので、事前にキッチリと耳打ちされていたように「泣かせて」くれた。
大感激、大感動。
流石である。
一流のミュージシャンというのは本当に凄いと思う。
感心させられる。
たとえリハーサルといえども少しも手を抜かない。
観客のいない暗い客席に向かって全身全霊で熱唱するこの日本の音楽界のビッグネームの姿と声には思わず知らず見事に落涙させられた。
「フルリハーサル」というらしいが、この「縁福」にめぐり逢えたのも何かの御縁であろうかと思う。
オーケストラとのカップリングで5月から8月まで全国ツアーを続けているらしく、その日は九州交響楽団とのデュオであったが、こちらのオーケストラも素晴らしい「音」を聴かせてくれた。
素人耳にもその奏でる音楽には歌手(玉置浩二)抜きでも充分楽しめるほどであった。

表題の「Friend」は偶然筆者の最も好きな歌のひとつで、カラオケなどでもお客さんの少ない時だけコッソリ歌ったりする曲だ。
内容はいくらか悲しい詞で「一緒に暮らした美しい人との死に別れの悲しみ」みたいなものとなっているが、メロディーがとても美しいのでそれが流行していた頃には結構スナックなどで歌われていたが近頃はあまりそれらの場所では聞かなくなった。
当時は「名曲」だとか言っていた知り合いの女性のママさんとかもいたが、その方も今はとっくに引退して人の妻となり母となっているようだ。

この曲の詞と調子は、筆者の個人的な「悲しみの体験」とよくダブっていて、時々歌うときに涙が出たりして恥ずかしいので何年かは封印していたのであるが、件の玉置さまが故意か偶然かプログラムの一部(2部構成になっていた)の最後にこれを歌って見事に筆者の顔をくしゃくしゃの涙顔にしてくれた。
客席の明かりが点けられて正面から見て客席の殆ど右端に座っていたのに筆者の目が合って、この大歌手が僅かに破顔して微かにうなづいてくれた。他にパラパラと関係者だけ数人の客席でもステージからはよく見えるものなのだ。
「分かってるヨ」・・・。
もしくは自らの歌のインパクトを確かめただけかも知れない。不思議な体験であった。

これは大いに「勘違い」かも知れないと自分に言い聞かせるのであるけれど、何度も思い出しているとそのシーンが少しずつ強化させていくようで、これが「記憶」というものの「正体」でアテにならないことの証左にもなっている。
つまりアタマの中で「再現」する度に少しずつ変容していく記憶。
いずれにしてもあらためてこの「Friend」を30数年ぶりに「発見」して驚いている。
このありがたい出来事の数日前に「玉置浩二」の出てくる夢を見た。どんな内容であったか忘れてしまったがこの数カ月前までNHKのBSで「玉置浩二ショー」みたいな番組があって、ゲスト歌手を呼んで一緒に歌うという企画があって録画して何回も観た。そのせいかも知れない。
この時に彼の大歌手の歌のうまさにはしみじみと驚嘆させられていた。
こんなのを聴かされて、観せられたらカラオケで歌とか歌えんなあ・・・などと言う感想を持った。
それほど「真似のできない」歌唱力を持っておられる大御所であらせられる。
昭和33年生まれ。
六白金星という星だ。
この星の人には歌手が多い。
同年のマドンナ、マイケル・ジャクソン、石川さゆりなどいずれもワールドブランド、ナショナルブランドの大歌手だ。
さらに年上には森進一、高橋真梨子、矢沢永吉、年下には坂本冬美、早世したZARDの坂井泉水など・・・。
歌を歌う「声を出す」というのは多分に生命力、バイタリティーを要るものだ。
これらの人々にはそれがあられて、いずれも見た目が若々しく声もよく出ておられる。
Friendの歌詞を少し紹介してみる。
♪さよならだけ言えないまま♪
君の影の中に今涙が落ちてゆく・・・
冷たくなる 指・髪・声
二人暮らして来た香りさえが消えてゆく♪
♪心からFriend・・・♪
♪・・・悲しくなる・・・♪
思い出だけ
夢がさめてもまだ夢みる人忘れない・・・
もうFriend
きれいだよFriend
このままでFriend
やさしく
もうFriend
心からFriend
いつまでもFriend
今日からFriend♪
その人と暮らした日々、その悲しくも突然の死。
深い美しさをたたえたままの早逝。
42歳。
まるで生きているかのようにかすかに赤味のさした白磁の人形のように整った、端正で美しい死に顔。
たまたまお棺を移動する時に僅かに縦にされ、参列者に瞬間晒された、そのまるでまだ生きているような瞑目した面差しが、小さなどよめきを生じさせるぐらいの衝撃を与えたようであった。この「Friend」を聴いたり歌ったりするとその時の「顔」をいつも思い出してしまうのだ。
その葬儀の日には「暮らしていた部屋」に入り狂ったように泣きとおした。
それこそに「香りさえも」どんどん消えていくような気がした。それらの悲しみの記憶の深度をさらに深めさせられた。亡くなった彼女がまるで「忘れないで」と伝えているような出来事(玉置浩二リハーサル見学)である。

今年は没後10年。
今は記憶が消えて行くのが寂しくて悲しい。
玉置浩二の「Friend」はその時の強い感情を思い出させてくれる。
そうしてその本人の歌唱をなんとリハーサルで聴かされる幸運にめぐり合えるというのは自分自身が何かしら特別な運命に導かれて生きて過ごしているのかもしれない、ということをあらためて感じながら観客のいない静謐な客席でボーっと一人座って聞き入った。
それにしても生の歌声とCDやテレビの「声」とこんなにも違うものなのかと・・・。
あらためてプロの歌手、それも日本の音楽界をリードしてきた玉置浩二の創造する素晴らしい音楽の世界に思い切り酔い痴れることのできた福岡の夕べであった。

新幹線で人吉に帰着したのが午後7時。
便利になったものである。
福岡くらいならかなり大物でも来てくれるものだ。

それにしてもfriendというのも微妙な表現もあるものだ。妻では重いし、愛人では暗すぎる。恋人に近いがそれほど水っぽくもない。勿論妹でも子供でもない。ましてや母親でもない。girlfriend、案外妙なる言い回しかもしれない。英語は時にひどく便利だ。

ありがとうございました
M田朋玖



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