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■ 男の生き方 | 2018. 5.30 |
こういうタイトルでモノを書ける年齢になったと勝手に解釈してこれを書いている。 今年の12月で早65才だ。 世界保健機関(WHO)で定める「高齢者」の分類に入る。 ヤレヤレ。 昨日H30.5.26は漢方の医学研究会で熊本市内に出かけた折に自然に街を歩いていて、人々を老若男女を、少年も含めてドンドン追い越していくので、自分の「歩行速度」は結構早いのかも知れない・・・とあらためて気づかされた。 歩行速度と寿命は相関関係があるらしく、個人的予想に反してそれが早い方が長寿だそうである。 昔から歩くのが早い人はせっかちでセカセカしていて時間感覚が短く結果的に短命であろうと考えていたので、NHKに出演していた健康科学の先生の解説によれば上記のデータが結果として数学的に導かれるらしい。 ホントかいな。 個人的感覚では「歩く」のはとても苦手で早く済ませたいと思って早いのだけれども・・・。 また習慣的に運動として「歩いて」いるワケではない。 日常的にも殆んど歩かないと言って良い。 隣のコンビニにもクルマで行く。 歩いて一分もかからないのにである。 それほど怠惰怠慢な男が何故歩くのが早く、走れと言われたらいつでも瞬時に素早く走れるのか不思議である。 大して鍛えているワケでもないのに駅の階段など駆け上るし、駆け下りる・・・のを習慣としている。 キモチが良いから・・・。 それも自然に。 チンタラ歩いたりとかゆっくりした階段昇降したりはかえって疲れる。 歩く、走る・・・と言う潜在力がどこから発せられているのかはワカラナイ。 筆者の母方の祖母は90才でも何の鍛錬や運動も、それこそ歩行、散歩など表立ってした風でもなかったが死ぬまで健脚であった。 遺伝体質かも知れない。 世間では「運動」「運動」と健康法についてバカのひとつおぼえのようにウルサイが、本当にそれで効果があるのだろうかと考える。 現時点での筆者の感覚ではそんなものが必要な感じがしない。 「まだ若い」せいであろうか。 日常的に殆んど歩かないということを自認している親戚の女性がいるが、この人はプロポーションも抜群で太股なども張り切ってバレーボール選手のようであり、肩も逞しく水泳選手のようである。 これまた「運動」を一切していないらしい。 タバコを喫って、ビールを飲んで家でゴロゴロしているが、年齢よりも若々しく一見現役のスポーツ選手のように普段から鍛えているように見える。 知らない人に「どこのジムに行っているのですか」とか「どこのエステですか」とか、同年の女性によく尋ねられるらしいが、本当の自分の自堕落な生活ぶりを正直に述べ伝えても信じてもらえないそうである。 これらの実情報を数限りなく聞いているので、運動の健康効果については今のところ個人的には非常に懐疑的である。 朝とか夕方とか太った人、もしくは痩せすぎた人、即ち少しも美しくない人が一生懸命歩いている姿を見かけるにつけ「ご苦労さん」といくらかの同情を込めて心の中で声をかけている。 だいいち「道路を歩く」というのがとても危険であることはまだ周知されていないようで、統計的には自動車の運転者の100倍の事故死亡率だそうである。 上記のような理由で筆者の場合、ただ「歩く」とか「走る」という運動はいくら世間の風潮やメディアの推奨があっても「しない」ことにしている。 まず時間がモッタイナイ。 何も食べずに、考えずに気持ちよく寝ていた方がはるかに痩せるし、寝ていれば心身の健康に良いと考ている。 さて本題。 男の生き方の基本はやはり「美学」だ。 もっと俗的に言うと「カッコヨサ」だ。 みた目も含まれているが、それより行動・言動・ふるまい・考え方の意識の洗練である。 これは自らの行動に一定の方向性を持たせてくれるのでとても有難い。 時には「痩せ我慢」や「見栄」も必要である。 「武士は食わねど高楊枝」と言った言葉で表現される体裁としての美意識は武士道ならずともイギリス紳士に見られる特質で、先年ノーベル文学賞を取った日系イギリス人のカズオ・イシグロの「日の名残り」などを読むとこのあたりの美意識を違った角度から鑑賞することができる。 由緒ある名家に仕える執事の男性の献身と忠義と心遣いや細やかな配慮、散りばめられたひとつひとつの行動群がすべて或る種の「美意識」をまとった矜持、プライドとして表現されている箇所がいくつもあって読者を独特の美と高い格調の世界にいざなってくれる。 「自覚され、覚悟された痩せ我慢や自己犠牲は深い快楽なのである」 正当な美意識というのは勿論女性にもあった方が望ましい。 「献身」という言葉で表現されるふるまいで、それに純真無垢とか明るさが加味されると美しさが殆んど完成されると思える。 塩野七海の本で「男たちへ」という作品の冒頭に出てくる話だが、日劇ミュージックホールのオーナーでダンサーたちを多く見ていた人物がいて、その女性評では「アタマが良い」のが一番だそうである。 女性のアタマの良さとは何かと問われても即答は出来ないが、男や子供や親をうまく「操る能力」なのではないかと考えている。 それも良い意味で・・・。 それは相手(男・・・)の自立や成長を促すという性質の類で、そこにいくらか忍耐がある時に献身という言葉の表現が当てはまってゆく。 そしてもうひとつ・・・言葉としては簡単であるが「愛される能力」というもので、これは「成功する能力」「幸福になる能力」と同じように意外に難しい。 特に女性の場合「愛される能力」の劣っている人がおられて、どんな特徴があるかというと、まず「美人であること」『相手を怖がらせておいて「愛して」という人』「愛されたいと強く思い過ぎる人」「甘えられない人」「男を見下す人」「自己中心的過ぎる人」など多彩であるが世間、世の中にはかなりおられて治療が結構難しい。 これは他コラムに別枠で詳述したい。 それらをひっくるめて全般に女性を、他者を愛せる男が最高であるが、まず絶対に「恐れない」ことだ。 どんなことも、どんな事態も・・・。 それで或る種の覚悟みたいな心が必要になるが、それを外見的に支えるのが「美学、美意識」というもので、内面的には哲学的に洗練された「高尚さ」であると思える。 高尚さとは何ぞやと調べたら上品とか品格とかの言葉が出てくる。 品とは何ぞやと再び問いかけるとかなり昔に愚コラムで書いた内容を参考にしたい。 「品」は口3つで形づくられた文字である。 口は食べる口、喋る口、飲む口、そして性行為に使う口だ。 これらを慎むことで生まれるひとつの自制心、忍耐心なのではないかと考えている。 飲食を節し、話すことを節して性行為を節するとどうなるかというとこれは自然に上品になる。 それは自分の「分」を節倹して「人に与える」ことに繋がるからだ。 少なくとも与える用意があるということになる。 「人の話を聴く」というのも与えることになるので上記の口3つを慎むことで得られる「徳」も自然的に、結果的に与えるということになっていく筈だ。 レイモンド・チャンドラーの小説の名言に「男は強くなくては生きていけない、優しくなくては生きる価値がない」という有名な一文がある。 その「強さと優しさ」の両方を愛する者たちに向ける時、男の生き方として結果的に美になっていく。 そうして多くの日本人の男たちは自然的にそれらの行為行動をしていて、そういう人は老若を問わず一目で分かる。 そうでない人もこれまたすぐに分かる。 それはやはり「顔」だ。 昔よくテレビに出ていた作家の藤本義一が「男の顔は領収書」と言っていたが多分真実だ。 この作家の勧める本で中島敦の「李陵」という小説は大変な傑作で、文章も物語も素晴らしく別の意味で男の生き方の参考になる。 「簡にして素」 要するに素朴で純心ということでもあるが、それでいて知略、謀略、英断もできるという男で、まとめて述べると怜悧と愚鈍、明知と暗愚、厚情と冷徹など真反対の言葉がバランス良く併存していてその振幅が大きい男。 外見的には不可解、摩訶不思議、アブナイ、謎ということになる。 作家の村上龍の「男は消耗品」男の生き方に大変助けになる。「女こどもに使われてナンボ」みたいなセンスと覚悟は良い参考になる。ただし自分に保険金かけて上手に死ぬというのはアイデアとしては面白いが、それを手にした者共が愚かな人間なら逆にやたら有害だ。やはり少しずつせっせと尽くして尽くしきるのが男らしいと思える。たとえ騙されていると分かっていても。ただし人間の器量の大きい男ならその対象が国家や世界となる。意識してそう思うだけでも充分に男の存在感として立派で美しいモノになるはずだ。要は自分の命を何に使うかであろうか。勿論自分だけのためにその命を使うというのは少々お下品であるが、誰とは言わないがどこぞの国家元首と呼ばれる人々の中にもおられて一見して「コソドロ」のような顔相をしておられる。またその行動も全世界的にバレバレなのに相当ツラの皮が厚いのか一向に廉恥を感じておられない。大したもんである。 答えの出ないムズカシイタイトルにしてしまったと少々後悔している。 また自分のことは「全部棚にあげました」という前提がないとこんな表題と内容は書けない。悪しからず。 ありがとうございました M田朋玖 |