コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

[戻る]
■ 「誰のおかげで」2018. 5.12

この言葉はいっぱしの男なら決して口にしてはイケナイ見苦しい言葉の筆頭だ。
しかしながら普通の男が結婚して一家を成し、共働きでなくとりあえず独りで妻子を養っていると誰でも思うもののようである。

筆者とて例外ではない。
そんな気分になったことが若い頃には多々あったものだ。
ただ知識、情報、教養として当然ながらそういうことを「誰のおかげでお前たちは生活できているんだ」などと口走ったことは一度も無い。
また今は心の中にもそういう言葉は浮かんでこない。
先日ある人物の評判で入って来た話でこれを書いている。
その人物は男性で退職後に退職金や年金は自分が働いて得たモノだから全部自分だけのモノで配偶者や子供などに渡すとか分ける必要はないという勝手な理屈で実際にそういう行動をなさっておられるそうである。ある意味見上げた根性であるが、傍目には最悪の「男」である。信じられない。その御仁の口癖が表題の「誰のおかけで」だそうである。
そんな話を聞いてますます「男」の存在としてそのような言動や考えが著しく美意識を損なうということを深く胆の底で感じるようになった。

色々な見方、考え方はあると思うが「愛」とは多分に自己犠牲的な色彩を帯びるものなのだ。
これは男女共同じで「この世」の中で最も精神的にエネルギーの高いとされる「無償の愛」というモノを考えた時、相手(配偶者・妻、夫)や子供に対して感謝や労いの言葉を含め「見返り」を一切求めないということが「無償」というものの条件になる。
これは理屈として当たり前のことだ。
基本的に「無償の愛」で形成されるべき「家族」というものも「利害、得失」についての思考や欲望、感情が少しでも混じって来るといきなりその関係性が醜悪なモノになるようだ。

このあたりの基本的「捉え方」は家族を構成するメンバーのリーダー(夫か妻、或いは両方)が正しく抑えておくべき知識、感性だと思える。

勿論お互いの「利害得失」諒解した上で、幾分打算的に営まれる家族も世間には結構あるかも知れない。
そもそも物事の美醜などに全く関心の無い人々もおられるようなので、コトの善悪、不徳有徳の問題ではなく、あくまで「見苦しい」かそうでないかの判断基準で観察した時のハナシではある。

家族関係、夫婦関係は社会の構成単位の最小でありながら基本中の基本なので、できれば充分に熟知しておきたいテーマである。
何しろ我々の存在一人一人が通常の場合、家族の中から生じており、最低でも両親という名称のいくらか神聖なイメージであるものの、突き詰めれば「男と女」の営みから故意か偶然か定かではなく生じさせられているのだ。
綺麗事ばかり言っているとこのあたりの真理を忘れてしまう。
皆さんどんな人も男と女のイヤラシイ行為から産まれているのである。
そのことを理性的に、いくら割り切って考えても性と愛の絡み合いに人間の打算計算という思考を加えるとこの問題が急に醜くなってしまうということをお伝えしたいのだ。

人間の美意識というものがこれらの男女の物語、家族の物語に一定の枠組みを作ってくれる。
これはとても有難いことで、人間はどんな立派な人でも油断していると鬼畜のレベルに成り下がってしまう可能性を秘めていて、どんなカタチにしろ男女間、家族間に「相手に見返りを求める」ことによって瞬時に反吐が出そうなくらい悪臭を放つ汚物のような関係性に墜ちてしまう。

これは意識しておかないと自らの醜悪さをそれと知らずに人に語って見せ、軽蔑の対象になってしまったり「クズ男」とか呼ばれ、チリかアクタのように周囲の人々から扱われかねないだけでなく、自らの人生を少しも実りの無い砂漠のような殺風景なモノにしてしまう可能性だってあるのだ。
何しろ男女間、親子間、組織における「軽蔑」という心理状態は強烈に破壊的なのだ。

誰だって「恩着せがましい」人間に頼み事をしたがる人はいるまいし、ましてやそれらの人物を愛したり敬ったりするなんて殆んど全くあり得んだろう。
即ち恩を売った人も、助けてあげた人も何らかの見返りを求めたことによってその社会的価値、家族的価値を一気に失ってしまうかも知れないということだ。

金持ちのする「寄付」にしたってそれが公表された途端に日本だと「宣伝」になり「売名」になったりして一瞬にしてその価値を失う。
芸能人のするボランティア活動なども同様で、これらのカラクリの理解について多くの人が「無知」であると感じるのは筆者だけであろうか。
モノにしろお金にしろ何らかの援助にしろサービスにしろそれを人に与えるのは良い。
素晴らしいことだ。
ただしそれらに見返りを求めたり恩に着せたり公表したり人に語ったりするのはとても「見苦しい」ということだ。

ましてや家族や愛する人にそれらの行為をしたら美醜を越えて悪徳不徳のレベルに立ち至り、その結果自分の身を「与えた」行為の反作用のように打ち砕き、滅ぼしてしまうかも知れない。
そんな風に見える人が時々著名人の中にも見られる。

「誰のおかげで・・・」という上記の事柄をシンボリックに表現する言葉だけは寝言でも口走るまい・・・と特に多くの男性、それも家長、社長、部長などリーダー的存在の人には強くお勧めしたいし自戒もしている。
もしかして少しでもそんな考えを心に浮かべたなら自分自身を軽蔑しても良いかも知れない。

それほど深く考えなくても全ての人間は生まれた時から死ぬまで数えきれないほど多くの人々のお世話になっているらしく、成書によれば計算上は3,000万人ほどになるらしい。「おかげさまで」という謙虚謙遜な態度心構えが良識ある人間の基本的な生き方であろう。

自分の力「だけで」人を育てたり助けたり救ったり出来るわけはないのであるから、「誰のおかけで」つまり暗に込めらているメッセージ「自分のおかけで」なんて口が裂けても言えない台詞のはずなのだ。それでも人間らしく正当な感謝の言葉くらいは口にしておいた方が、多少功利的に見えても「お得」ではある。

因みに冒頭に挙げた評判の人物は予定どおり60歳前半の年齢にも関わらず見事に認知症になられて毎日テレビの前で「恍惚の人」だそうである。

ありがとうございました
M田朋玖



濱田.comへ戻る浜田醫院(浜田医院)コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせいよくある質問youtubeハッピー講座