コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 愚考2018. 4.16

「人間は考える葦である」と言ったのはフランスの哲学者、物理学者ブレーズ・パスカルである。
人間は自然な状態でよく考えることをする。
学校の教育で主に考える、記憶する、創造するなどの知力を鍛えられるので放っておくと「考える」こと、またその「考えた結果」」を何かしら素晴らしきモノ、良きモノと考えがちである。

西洋哲学、中でもギリシャ哲学に理性(考える)ことを重んずる類もある。
一方で神学者でもあるイマヌエル・カントはその著書「純粋理性批判」において人間の思考の限界について語っていて理性を批判している。
筆者はこの考え方の方に共感する。
感情と理性の欲望など人間の脳の活動をザックリと分けて比較すると一般にはすぐに理性が最も大事と考えるようだ。
理性(考える力)でもって感情と欲望を倫理道徳的にコントロールしている状態を「人間らしい」と考える「考え方」である。

誰もがそう信じていて、特にマチガッタ考え方、捉え方ではない。
ところがよく深考すると、またいろいろな成書によると感情は神の啓示であり直感(インスピレーション)と同じように理性より価値の高いもので、欲望もまた人類の成長発展に欠かせない大事なモノであるので人間を含め生物が理性と同じようにそれを尊ぶべきと思える。
食欲・性欲・睡眠欲・集団欲などを失ったら人類はただちに滅びてしまう。
欲望はコントロールされなければならないが、実は理性(考え)よりも自然(神の意志)にコントロールされる方がより好もしいと考えている。

自然界の、どちらかというと思考や理性の力の弱いとされる動物の方が欲望の発現と消退が自然であるので「欲張り」とか「貪欲」とか、それにともなって生じるそれを得られない精神的「苦痛」とか「嫉妬」とか「我慢」とか「過剰」などで苦しむことはない。
また仏教の宗派によっては理性よりも欲望に従って自然に生きている人を天上人として人間界よりも上位とする考え方もあるようだ。

感情にいたっては、それは愛に基づいて起こってくる情動であるから多分に神的なモノである。
怒り、恐れ、悲しみなどの感情は自分や他者への愛から生じる大切な精神活動で、これにもとづいて自然に生きていると健康にも良い。

多くの疾病は抑圧感情によって起こってくる。
失感情症(アレキサイミア)という心の病気があるが、これを持っていて食生活を中心にそれが乱脈であったり単なる無知による偏食や過激な遊びや過重労働などがあったりすると重篤な疾病に罹患することもある。

怒りは下痢、淋しさは嘔吐、悲しみは食欲不振などの軽い身体症状が出るが慢性化して大腸炎になったり拒食症や糖尿病になったり、時には癌になったりする。
結構厄介なのが「感情」というものである。

「人間の考える」というものをあまり重視してはイケナイというのが筆者の考えである。
それは霊的でもなく神的なものでもなく人間的なものだからである。
つまりレベル的に低いということだ。
そうして普通の人間の思考というものは自然な状態でネガティブな方向に流れやすい。
即ち心配、悩み、不平不満、悪口、文句、愚痴などがその典型で、これらの思考は怒りや恐れなどの悪感情を惹起する。
またそれらの感情は様々な精神身体疾患を引き起こす。
放っておくとロクなことがないのが人間の思考というものである。
また今の現代社会ではそれらのヨロシクナイ思考を生み出す社会的装置がいっぱいあって、それはテレビや新聞、雑誌というものである。
一般の人がそれらの情報や番組に朝から晩まで晒されて正気でいられるというのが不思議に思えるが、多くの人は繊細な精神神経、感覚が鈍磨しておられるのであろうか、表面的には平常に生きておられるように見える。

筆者のデリケートな精神はそれらの圧力(テレビ、新聞メディアなど)に耐えられない。
したがってそれらからハッキリと距離を置いて観ない、読まない、はたまたそれらについて議論しないということを意識している。
多くの思考はネガティブなモノに結びつきやすい、同調しやすいと述べたが結果的に、端的に表現すれば所謂「愚考」ということになる。

「バカの考え休むに似たり」

という言葉があるが今は休みにもならない。
思考が右往左往、右顧左眄して心の中は騒々しく荒れまくって少しものどかな、やすらいだ心持ちにならない。
極言するなら普通にしていて一般的になされる「思考は有害」なことが多いのである。無益とまでは言わないけれど。

中には「賢考」をする人がいるが、これらの人は漫然とテレビを観たりするようには「考えない」。
筆記具を手に持ち、ノートや手帳や紙面に向かいながら、書きながら考える。
それは時間を決めて。
ぼんやりと考えるのも時には良い。良質明瞭な目的を持って考えるとインスピレーション的に良い考えが生まれることがあるからだ。
その時間は朝起きてすぐか、夜の就寝前で反省とか自戒とか感謝とか夢、願望などを整理して書きつけている時などに起こる。

感謝というのも明瞭明確に理性的なもので、湧き上がってくる感情も喜びとか満足に満ちたものである。
アタマの悪い人、「賢考」できない人はあまり感謝をしない。
物事や存在の成り立ちや社会のカラクリに考えが及ばないからだ。
世の中や人生について「無知」であるせいかも知れない。

寝転んでテレビを観ているような怠慢な脳の状態では思考などしないことである。
それはかなり正気で意識が清明で適当な集中力とリラックスと愉快さがあってこその「賢考」なのである。
良質な書籍を読むことでもそれは起こる。よもやマチガッテもテレビを前に無我夢中で愚考するのだけは避けたい。見事に騙される。事の軽重や優先順位が混乱し時に意識が混濁し間違った判定評価、判断をしてしまう。
要するに余計な「心配」や「怒り」を心に抱いてしまうということだ。

出来得れば星や月を愛で、太陽を拝み、青空や雲の流れや風の吹くさま、木々の揺れる緑豊かな「自然」とたわむれている時に清明で心地良い思考が生まれるがそれは大概、感謝と満足であり、愛や活力である。
最近は本屋に行ってつらつらと新刊の書籍を眺めてまわてもレベルの高い良書に出逢わない。
軽い本ばかりだ。
所謂「How to」本の類。
皆さんできるだけ簡単な手続きで良果、成果を得たいらしい・・・。
現代人の特質を表しているように見える。
人生にとって大事な事、物、成功などはそうそう簡単には手に入らないし、そういう類のモノは大昔から毎日のコツコツとした努力や工夫、鍛錬からしか生まれない。
人生を簡単に、シンプルに捉えることは大変結構なことであるけれど、そこに至る過程・プロセスにおいては自分でしっかりと学び体験していく必要があるような気がする。
そういう内容のことが宮本武蔵の「五輪書」に書いてある。
そういう五輪書のような良書・名著は今のところ古典と呼ばれる作品にしか発見できず、近頃の新刊本にはそのような名著と呼べるほどの哲学的に洗練された高尚なものは殆んど全く見られない。

結果的に本屋の本よりも自らの蔵書をあらためて読みなおすということをしている。
このような現象は映画と同様である。
つまり、いずれも「古典」少なくとも昔の作品に良質な作品が多いということである。

今は誰もが平気で無自覚にそれと知らずに「愚考」をしていて、勝手に「落ち込む」ということをよくなさっておられる。
『筆者のこのコラムからして自身の愚考の産物かも知れない。』

あらためて述べるほどのことではないが、自分のことを語るときに謙遜して頭に「愚」と冠するのが日本人のマナーである。例えば「愚息」とか「愚妻」とか。
そういう儀礼的な視点からだと自分の「考え」も人に語るときには、すべからく「愚考」になってしまう。これは実に日本的な素晴らしい感性であると思える。理性(考え)による人間同士の対立を回避しやすいし無条件に謙虚になれるからだ。

このように「考える」と「自分の考えが一番正しくて賢い」などと堂々と述べて恥じない人間というのは、少なくとも日本人の感性ではトンデモナクお馬鹿で恥ずかしいマナー違反をしているということになる。
自戒自戒、とにかく自戒ですなぁ。


ありがとうございました
M田朋玖



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