コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 春乱2018. 3.28

或る朝、狂おしいほどの深い悲しみで目が覚めた。
午前6時。
窓外は青白い朝霧で未だ日昇はしておらず、早暁の薄闇を保っている。
その悲しみは夢の中で味わったもので、愛する人の登場ではなく喪失した後の空っぽの部屋の訪問によって生じたもので、暗くて恐ろしい井戸の底の虚空を覗き込むような恐怖に満ちた独特の悲哀感情であった。

その人とは実際に10年あまりを一緒に過ごしたのであるが、不思議なことに夢の中では何回も転居していて、数件目の空き室を訪れてその死によっての「永遠の不在」をあらためて思い知らされ、発狂するほど悲しい気分を味わったのである。
こういう場合、即ちネガティブな感情の場合、ビールには意識して手を伸ばさないようにしている。
軽いトランキライザー(精神安定剤)を服用して再入眠を試みた。

今年は春になって鬱気が増している。
軽い希死念慮を伴うもので、多くの患者さんのその念慮に少しだけ共感できるほどだ。
「生きている」のが辛いから「死にたく」なる。
人間の脳は一定の喜びを感じなくなると生きて行けないそうである。
即ち正常に生きている人間は全て何らかの喜びをその人生から得ているということになる。
あらゆる懸案、懸念、心配事、悩み事、ストレスが一気に我が身に襲いかかって来て絞め殺そうとでもしているように感じる。
冷静に考えてみるとそれらの全ては解決可能であり、対処法も無限にあるのに瞬間的にそういう気分にさせられるのは「意識」が明晰でなくボンヤリしているからで、純正な霊性心や魂を取り戻せば何のことはない筈のものだ。

悲しみにはいくらか甘い喜びの感情が混じっていて、何故かと自問した時に元々人生そのものが記憶された過去との毎日の決別で成り立っており、それらを癒やす力が宿っているからだと考えている。即ち生きて行くのに必要で大切な感情なのだ。そのために神様が少しの甘味を悲しみという感情につけてくれているのかも知れない。

勿論、全ての感情は「愛」から生じているもので、元の感情、即ち「愛」に意識を向けると勇気が湧いて来る。
それも人類愛とか世界平和の祈願とか出来るだけ高尚な事柄に意識を向けていると個人的で小さな悩み事は自然に減少してくるとのことだ。

人間の意識はどうしても「時間」と「空間」に捉われてしまって、それらを超える「霊的な事柄」を忘れてしまう。
「永遠の生命」というような魂的な意識には普通の人は思いや考えが及ばないのだ。
そのようなややオカルト的な内容ではなくても「時間」とか「空間」にそれを出来るだけ永遠的に、宇宙的に長く大きくすると小さな個人の意識でもいくらか軽くなるものであるが意識そのもののレベルが低劣だったり幼稚だったりすると悩みや苦しみは少しも消えない。

ソクラテスはこう述懐している。
―人々から彼らの愛する愚劣さを奪い取ってやるといつも彼らは怒って噛みついてきたものだ―

この一文は心しておきたい内容で、自分が何かに対して怒っている場合、自分の心に愚劣さが混じっていて、それを指摘された時にまやかしの自尊心、即ちエゴが傷つけられたと感じ賢明さ、高尚さを学び損なってしまうものであるようだ。

多くの名君とか賢人とか言われている人々はこれらのことをよく諒解しているので部下や家臣の進言で「カチンときた」場合でもよく自省・内省し、それらをよく聴き入れて自らの成長や指導者としての智恵や能力に役立てようとするものらしい。

しかしながら多くの人々は「そうではない」と心得ておくべきで、ソクラテスのような言動は一般には恨みや怒りを買いやすいということは胆に銘じておきたい。

早朝の悲しみの理由を自問してみたら就眠前に観た映画が原因かも知れない。
それはマット・デイモン主演の「ボーン・スプレマシー」という人気シリーズの2作目で平成16年の公開。
その年の1月10日に母が他界した。その悲しみの癒えぬ間にその1年後には別れることになる8年ほど一緒に暮らしていた、その4年後の平成20年には喘息の発作で急死することになる女性と観に行った映画であることを思い出した。

記憶の底に沈んでいる悲しみなどの否定的な感情を掘り起こしてくれるのは大概いつも映画であるようだ。
入眠前と起床時には潜在意識の小窓が開いて記憶の深層に眠る膨大な情報が噴出し、表在の意識に上って来てその個人の脳や意識を撹乱するようである。

そういうワケで自分の意識できない意識、即ち潜在意識についても常に用心深くメタ認知的に監視しているべきで、色々な厄介な現実を創出することもあるのでささやかな変化でも取り除くべきは取り除き、温存するべきは温存するという心の態度が必要なのかも知れない。

春の精神撹乱はその光の量と比例するようで、うららかでのどかな田舎住まいであっても、本来は穏やかで安らかな筈の心を次々と破壊しているように感じられる。
まさに、こころが「春乱」と呼称できるほど千々に乱れ、さまざまな辛い想い出や「鬱気」によって相乗され彩色され正気を保つのにいささか苦労している。

ありがとうございました
M田朋玖



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