コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 文字2018. 3. 8

ご存知のように文字を持たない民族は文明を開くことができない。
文字どおり知恵、知識、情報を記録として後世に残し継承、発展させることができないからだ。
人類の成長、発展はまさにこの数字や絵画を含め文字、即ち紙もしくはそれに類するものに記録され、残されて力を発揮する。
それも強大で生半可な力ではなさそうだ。
北米に住むネイティブインディアン、北極圏の先住民(イヌイット)、日本のアイヌ民族などいずれも文字を持たなかった。
結果、文化の伝承は主に口伝(老者、長者による言い伝え)に頼らざるを得ず、どうしてもその情報や知識が小さく狭く限定され、大きな発展を得ずに停滞したままになるようだ。
何年経っても「昔ながらの・・・」という生活様式と文化。
これは暗黒大陸と呼ばれているアフリカの多くの部族にも言えることで、彼らの多くは学校を持たず、文字を持たず「書」を持っていない。
その結果、所謂それらを多く蔵した文明人に侵略され、迫害を受け、土地を収奪され、中には虐殺され奴隷化されるのだ。
こう考えると文字は力であり、それを知りそれを使った知識と思考と勉学、学問、教育というものが強力なチカラを生み出すことを明瞭明確に了解し、最大限駆使して生きている人、所謂知識人、頭の良い人が人間社会で富や権力を欲しいものにし、権勢をふるっているというのが至極当然に思える。

一時期(今でもかも知れないが)米国で流行させられた「反知識主義」「反教養主義」みたいな考え方が国中に蔓延し、国家を衰退させたことがあった。
一方、世界中で富の独占的所有とそれに派生して強大な権勢を誇っているとされる、ユダヤ人の文字や書物へのこだわりは有名で、地位や名誉や財産、金銭、土地を失っても「本」だけは手離さないそうである。
彼らへの反発でもあったのか多くの米国人に反知識教養主義がひとつのトレンドとして存したのかも知れない。
詳細はワカラナイ。

日本人にも「言魂(ことだま)」という思想があって言葉には魂が宿ると考えられている。
多くの日本人の心の中に言葉とか文字についての識見が広く無意識的に潜在していて、文字とそれで構成された文学や詩歌や芸術としての書とか文言とか文章とか論理、哲学など文明開化の基本的要素となる最小の単位である文字を大切に思う感性、知性が深く包含されているようである。

このような背景を殆んど誰も知らされず、ただ単に「勉強せよ」と言われても俄かには得心できず、それに身を入れて取り組むということをしようとしない少年少女達が夥しい数に上るのは仕方がないことなのかも知れない。
誰も教えないのだから。

上記のような理由から文字を読めるのに本を読まない人間というのは大変な御馳走を前にしてそれと知らずに食べないでいる愚か者か、肉体の健康保持の為に補給するべき水とか空気とかその他の大切な栄養分を取ろうとしない虚弱で頑屈な生き物としか思えない。
少なくとも生きていくのに強力な「力」を持つことはできないであろう。

ついでに「人の話を聞かない」頑固な性格であるとそれらの傾向を持った人間の先行きは闇で、極めて暗澹たるものになるに違いない。
少なくとも社会の上層、即ち裕福でそれなりの地位で名誉を得ることは到底あるまいと思える。

こういった具合で個人のレベルでも非文明人は文明人に負けてしまい、支配され、奴隷化されるのだ。
まさに「知は力」である。
多くの大切な情報を持っているというのはそれだけで人生上も実生活上もビジネス上も極めて有利であろうことは誰にでも想像できるだろう。

そういう「文明化」の比較的低いレベルの人々を対象に製作されているとされるテレビ番組とか報道や映画などにばかり頼っていると「非文明人」になるかも知れないと自覚しておいたほうが良い。現代人のレベルとして。
今は本屋ですらもまともな類にまぎれてトンデモナク出鱈目な書物や雑誌も出ている。

それらを自分の力で多面的に情報を集めてそれらを元に最終的に自分のアタマで考えて物事を判断し、選択肢、決断しなければならない。

多くのことは毎日の“瞬間”において「人生の岐路に立たされているのだ」という自覚をもって臨むことが賢明な人間の取る精神的態度だ。

目の前に落ちているゴミを拾うべきか拾わざるべきか、前から来た知人に挨拶をするべきか、目の前にある仕事の本を読むべきか捨ててしまうべきか。そういう小さな判断ですらも身につけた知識と教養は役に立つ。
別に全ての知識が必要なワケではない。
夥しい数の無用無益な情報や知識を「省いていく」「捨てていく」という作業も必要なのである。

勉強の基本はやはり今でも読書であるようだ。
「読み書きソロバン」というのが昔からの日本人の庶民に刷り込まれた勉学の動機についての思想であり、それに仏教思想が加えられ、一方武士階級においてはそれが儒学であり、それから派生した武士道というものであった。

それらの日本人の思想体系を破壊しようと占領軍(GHQ)が企んだが共産主義の世界的台頭もあったりしてその後ウヤムヤになり現在に至っている。
以上が前置きである。

本題に入る。
最近文字を書くことが好きになった。
カルテ書きを万年筆にした為とも思える。
筆圧が要らず滑りも良い。
この原稿は2Bの1.3mmの極太の芯を持つシャープペンで書いているので文字を書くというのとても心地良い。

少年時代から字を書くのがとても苦手で、自分でノートを取ってそれを見ながら読みながら勉強をしたことは一度もない。
教科書や参考書に書き込むか大学時代は殆んど全て学業成績優秀な女子学生のノートのコピーで勉強した。
現在もノートとか手帳とかシステム手帳とか強く憧れていて何度も挑戦し何回も買ってみたがどれひとつまともに使いこなしたことはない。
それらの全ては書棚の奥でほんの1ページか2ページ、何かしらどうでも良い内容が書き込まれただけで静かに眠っている。

モチロン携帯電話やスマホのメモやノート機能も使えておらず、筆者のスケジュール管理は診察室のカレンダーに書き留められた走り書きのメモだけである。
細かいことはスタッフに任せてあるので大切な用事は全部アタマの中。
それほど優秀な頭脳ではないけれど忘れてしまうような用事など元々大したコトではないと割り切っている。

それが最近は少し自分の文字について愛着を感じるようになった。
カルテやノート(自分の書いた)を見直しても以前のようにイヤな気分にならないし、保管もできそうな自分なりの「美」を少しく確認できるようになった。
ただ今でも自分のノートを作成するという境地には至ってはいない。
それは思いがけず突然に出現した感覚で、多くの過去の成績優秀な友人達は中学・高校・大学時代にその感覚を獲得していたようで今でも過去の彼らが羨ましいと感じる。

それでも大学時代の成績がまあまあ良かった時の1,2年間くらい自分で「まとめノート」を作成していて、それらは今ではすべて亡失しているが、脳裏に記憶され、そこに微かな喜びを感じさせてくれる。
それはとても美しいものであったと記憶している。

そういうわけで最近は文字を書く習慣と、それが残っていくという結果によって「自分」という個人において或る種独自の「文明」とも呼べるような知的開拓をおこなっている感覚があってとても心地好い。錯覚かもしれないが、自分が成長し発展しているような気分に浸れるのだ。

ありがとうございました
M田朋玖



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