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■ 婚活パーティー | 2018. 3. 1 |
結婚できない男女が増えているのか? これが田舎でも都会でも盛んだ。 若者のコミュニケーション能力の低下か性欲・生能力の落下か、いずれにしても結婚まで至る手続きが昔より簡便になっているのに逆に結婚難だ。 不思議なことである。 携帯電話、スマホの出現以前は男女のコミュニケーション、連絡は主に固定電話かその前は手紙だった。 娘さん(女性)が親元にいる場合、一般に親の取り次ぎを要する。 これがかなり面倒臭く、まだまだ純粋な当時の少年には少しばかり勇気がいった。 「こんばんは、〇〇さんのお宅でしょうか」 「〇〇さん(相手の名前)お願いします」 「〇〇〜」娘さん(相手)を呼ぶ声。 もしくは「どちら様ですか?」と問い詰められることもあり、中には 「お風呂です」の一点張りで全く取り次いでくれないこともある。 こういうやりとりについてはかなり何度も練習した。 時には「女声」の練習までした。 とにかく連絡を取るだけで大変な努力を要したのである。 昔の若者は皆。 当時は私立だと男子校・女子高があって、さらに男女間に障壁があった。 それまた男女のお互いを求め合う欲望と、会った時の喜びをかき立てる。 昔は男女の間の通信障壁が今は殆んど全く取り払ってしまわれたのにこの体たらく。 人間とは面白いものだ。 逆境とか困難の方が人間を成長させ、鍛え、逞しくするものであると。 その通信障壁の無さは限度を超えて24時間、年がら年中、人々はそれこそ繋がっている。 またそのことを奨励してもいるように見える。 筆者の個人的感覚では人々は繋がり過ぎていると思う。 結果、今は距離を取ることに腐心しているようにも見える。 そういう環境の中、行われる婚活パーティーの結果とは?・・・と考えた時にそれは殆ど実りというものがなく、不毛の、幾分哀調を帯びた心虚しい集いであることが想像される。 まず男女の心理としてそのパーティーに期待するものが良い結婚とか良い出逢いとかの要求・欲求であって、これがそもそも動機としてあまり芳しくない。 自分の好みに合った女性、男性に出逢うのには結構の努力、日頃の心がけが大事であるのに、それらの面倒臭い手続きや努力をせずに安易に良い出逢いなどあるワケがない。 要するに「考えが甘い」のである。 良縁・佳縁というものは天から降ってくるものではないのだ(本当は降ってくるのであるが・・・これには秘伝がある・・・)。 結婚生活のうまくいっていない人、結婚願望の強い男性に向かって時々エラソーに例え話をする。 江戸時代屈指の名君として知られる上杉鷹山の話である。 ケネディー大統領をして最も尊敬する日本人と言わしめた人物である。 この米沢藩主は元々宮崎県(日向国)高鍋藩の第8代藩主秋月種美の次男として生まれ、10才で東北の貧乏小藩に養子にさせられたワケである。 幼少時より優れた知能を有し勉学に秀でていたそうであるが、人柄も良く養子先の妻・幸姫は脳性小児麻痺であったらしいがよく可愛がり、遊び相手となり傍目にも感動を与えるほど深く愛したそうである。 その後の藩の財政立て直しの偉業は広く知られた上杉鷹山の高い評価を得さしめた歴史的業績である。 言うならば要介護状態の女性を妻として娶らされ、その運命を従容として受け入れて「愛する」と決断し実行する。 これが男の結婚というものへの精神的な理想的な心構えとするなら多くの男達の妻や女性についての不平不満や愚痴などは「ないものねだり」の甘ったれた幼稚な子供染みた悲しい遠吠えのように聞こえる。 「愛する喜び」を知った人間は逆に強く愛される。 上杉鷹山のような男を誰が愛さずにいられようか。 まずこのくらいの胆力、度胸、覚悟を備えてから結婚という問題に挑むならば、逆に良縁に恵まれていくものなのであるが、殆んどの男達はまず好き好みから始まる。 実のところこれは全く問題ない。 自分の下半身の欲求に応じて結婚するのは男女共OKである。 結果オーライということが多い。 理性、即ちアタマで結婚をしようとすると男は結婚そのものに臆病になり、女は相手(男)に対して恐れを抱くようになる。 そもそも理性(アタマ)は恐れを抱きやすい。 考えれば考えるほど勢いは落ちる。 人間の浅はかな考えで推し進められた婚活パーティーなるものがウマくいくワケがない。 男女共恐れを大量に含んだ思考と高い要求水準の固まりになるからだ。 誰も自分を与えようとして参加していない。 また自分の考えや態度振舞いを変える気もない。 自らの「理想の相手」というあり得ない幻想と、それに「出逢う」かも知れない奇跡にも近い欲望で参加して虚しい失望と共にそこを去るのだ。 それで成り立つとすれば女は詐欺、男はただの女蕩し・・・この組み合わせは実のところそれほど悪くはない「結果オーライ」の可能性も高い。 いずれにしても人生は限りがある。 何もないよりあった方がマシと思うのは筆者だけであろうか。 逆の思考回路の持ち主(平々凡々、無事これ貴人・・・)もおられるので断言はできないが所詮男と女、何もないより色々あった方が良いと思う。人生に愛も喜びも苦しみも味わいたくなければ結婚など望まないであろうけれど。 「貴女(貴方)と一緒ならたとえ火の中水の中。どんな苦労もいといませんヨ」というのが昔の男女の恋仲、駆け落ち心中、結婚の流れであったのであるが今は真逆の感じがする。 苦労をしたくない、楽をしたいと言って結婚をしようとするのは見当違いであるし、婚活パーティなどで展開できるほど簡単な手続きで成就することはない。特殊な場合以外。 たとえば自衛隊員を対象者と限定した場合、良果を得ることがある。とりあえず出自が明瞭で安全と確認されているし、求める側も下手な高望みをしないからで、自衛隊の人もこと結婚となると、ハッキリ下半身の正直な欲求に素直に従うからで、これは社内恋愛が成就しやすいのと理屈が良く似ている。 ありがとうございました M田朋玖 |