[戻る] |
■ 勉強 | 2018. 2.23 |
塩野七生の本を殆ど毎晩入浴中に読んでいる。 いったん読了したのであるが、やはり塩野さんが一番面白い。 繰り返し読んでいるが、深遠で示唆に富んでいて興味が尽きない。 「男たちへ」「再び男たちへ」「逆襲される文明」「男の肖像」 この四冊の読みまわしだ。 まだ塩野学園を「卒業」できない気がする。 読みながらあらためて人生の時間というものに思いをめぐらせる。 何もしないでも時間が経つと終わってしまう人生の時間。 有限の現世の時間という捉え方と無限の魂の時間・・・それは時間とは呼べないかも知れないが・・・時間の無い永遠の世界が魂の世界なのだそうだ。 「何をするか」より「どうあるか」を問う書物もある。 いずれにしても今このひとときも一瞬一瞬刻々と生命の時間が失われている。 こんな感覚は短い余命を宣告された重い病を得た人間か、それに似た極限の感興に置かれた人間にしか味わえないかも知れない。 そんな状況に置かれているワケではないけれど、多くの人が時間というものがふんだんに、日本国の一般家庭の水道の蛇口から無限にあふれ出る水のような感覚で毎日を生きておられるようで、チョットモッタイナイなあという感想をいつも持つ。 その日は出来ること、特に喜び楽しみであることは精一杯やっておいた方が良いとは思うのだが首肯する人は意外なほど少ない。 時間というものを「お金」や富のように貯め込んで残しておけるような感覚をお持ちの方もおられる。 最もお気の毒なのは体裁とか外聞とか世間体とかに自分の人生を支配させている人々で、これに次ぐのは何かの為に時間を犠牲にしている人だ。 筆者のごく個人的な経験では「楽しみ」と「犠牲」は同時進行の方が楽しく結果も良い。 それでも学校の勉強やスポーツの練習が辛かった人には全く逆の見解を持っている方がおられてお気の毒である。 犠牲イコール苦痛という考え方がまだかなりあって、特に気の毒なのは仕事や勉強は苦痛や犠牲を伴う半ば強制的・義務的な人生の修業かマイナスのしなくて良いならしたくないという「業」と強く思い込んでおられて、モチロン本当に退屈で苦行的な仕事も世間にはたくさんあるので極言はできないが筆者の場合、幸いなことにそれがどんなにハードでも苦と思ったり感じたりしたことはあまりない。 それ程多忙でも暇でもないからだと思えるが、親からあまり退屈を感じないっで済む医者という職を、いただいたことがかえすがえすも有難いことなのである。 学生時代の勉強もそれを楽しいと感じながらしている時が成績も良く、卒業前の国家試験の勉強など今でも心愉しい思い出で、それは繰り返しになるが苦の行というよりも楽の行、楽しみにすらなっていたほどである。 想い出や記憶が時間の経過と共に苦の部分が消えていくらしい。 卒業後の仕事はハードであった。 365日、正月以外休みというものがなく、朝の6時から深夜の11時か12時頃まで仕事をしていた。 若いということが一番のチカラになっていたようで、それでもこのまま続けていたら「死んでしまう」のではないかと薄々感じられたくらいであった。 主に慶応大学から来られていた先輩のドクター達はそれらのハードワークをモノともせず、シャープな頭脳と強靭な肉体とでもってさまざまの医者の仕事と研究の仕事をこなされていたので今でも強い憧れと尊敬の念は消えない。 そのウチに、たとえばランナーズハイみたいな状態になって痛みとか苦の感覚が麻痺して来て慢性の睡眠不足と過労とが常態化してまるでドクターロボットになったような気分であった。 「若い時の苦労は買ってでもせよ」というが、そういう言葉のチカラもあって大学入学前の精神的ドン底からすれば未来に希望も明るさも豊かさも予感できたので我慢できたと思う。 実際に明るい未来がやって来て心からの幸福感を味わっている次第である。 自らの運と努力に感謝している。 元々、幸運・良運の女神は激しい努力をする人の上に舞い降りるそうで、これは後から知った知識でやたらに勉強した時期が生涯で4年間ずつあって、それは➀12才から16才A22才から26才B36才から40才C50才から54才で、そのハードさは➀をピークに減弱しているが、それぞれに学校、セミナー、社会とが勉強の場はマチマチであったが苦しかったり楽しかったりでいずれも悪い思い出ではない。 人生はマチガッタ方向でなければ学んだり勉強した方が必ず見返りや報酬を与えられるのではないかというボンヤリとした信念があって、これを元に何事につけ普段から本を読んだり勉強したりするようにしている。 それで結果は概ね良くて、怠けたり遊び過ぎたりしているとシッペ返しもいつの間にかやって来て、それは糖尿病や高血圧などの生活習慣病の発症の仕方によく似ている。 江戸後期の有名な儒学者で佐藤一斉という人の書いた言志四録という書物に 「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり 壮にして学べば、則ち老いて衰えず 老いて学べば、則ち死して朽ちず」 という一文がある。 生涯にわたってよく勉強しておきましょうという言葉である。 勉強家で有名な人物と言えば同じく儒教を学んだ二宮尊徳(金次郎)がいるが、実人生も世間的にも業績的にも歴史的にも名を成した偉人である。 前記した「学ぶ」ということに典型的に熱心だった人物のようである。 戦前には「教育勅語」なるものがあって、教育の目的についてキチンと謳ってあったが今はそれがなくなり子供達も勉強の目的をせいぜい自らの立身出世とか富や地位や安泰への憧れからするらしいが「世の中への貢献」とか「世界平和へ資する」とか言っても全くピンと来ないし、何のことか分からないと言った風である。 そういうことを若い時から時々口にしていると自然に立派な人間になり、それなりに豊かな人生を送られる筈であるが、こういう文言もだいたいにおいてお節介な年寄りの「説教」とか思われて全く相手にされない。 求められない限りそういう内容のことは言わない方が良いようだ。 ただ為政者や子を持つ親にはしょっちゅうくどくどしく、言って欲しいと思う。国家や国民や自分自身や子供たちの幸福のために。 ありがとうございました M田朋玖そ |