コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 口惜しい!2017.12.19

英国人の有名作家、サマセット・モームが書いているように、モノを書くという行為は「心の重荷を下ろすためだけにある」だそうである。
今回はその目的に特化して書いている。

平成29年12月17日(日)はバスケの県リーグの最終戦が県内の某市民体育館であった。それこそ真に意味でその試合は「最終戦」になるかも知れない。何故なら県のリーグもBリーグの存在の関係からか次年度から廃止になる可能性が高いらしいのだ。

たまたま時間があったのでその30分前の10時にそこに到着。10時30分に開始される試合に合わせて一人で自動車を運転して出かけてきたのだ。

試合開始前の10分前までメンバーは4人しかいない。
40代のベテランを除けば全員20代の若者ばかり。
開始5分前に残りの一人が現れて5人がそろい、とりあえずメデタク試合成立に漕ぎつけた。
相手方は人数も身長もまあまあそろっている。

不思議なことにこういう5人ぎりぎりのケースでは経験上「勝利」する確率が高い。
それは一人一人のメンバーの責任感の強さが違うからだと思える。
休憩ができない替わりに交替もさせられない。
力関係は5分5分であっても意外に少人数の方が有利だったりするのだ。
筆者自身の最終戦(実質上の引退試合)でも、5人だけのメンバーで敵方14〜5人の高身長者の多い実業団チームに勝ったことがある。
この試合はモチロン僅差の勝利で自らが放ったドライブインシュートが決勝点になったこと。
最初の得点も自分の3ポイントシュートだったりして凡百の試合の中で唯一自慢できるゲームでたまたまビデオ撮影までされていてよく記憶に残っている。

そういう勝利への予感を心の中に憶えながら唯一のベンチスタッフとして応援とコーチングに精を出し、それぞれの選手たちの活躍もあって第4クオーターの終了2分前まで約10点差をつけて勝っていた・・・のに。
結果は何と逆転負け、それも残り17秒での1点差である。
こんな口惜しい試合はない。
こういう場合、自分がプレーヤーの時もコーチスタッフの時も大概いつも勝って来たからである。

数ある試合の中でも僅差のゲームでの敗北は初めてであったような気がする。
敗北そのものはスポーツでも仕事でも人生でも挫折と同じように全体としては悪い経験ではない。
それでもこの口惜しさという感情の持って行き場を個人的にはいくらか、ささいな事柄の割には持って行くところがなくこうして筆を走らせている次第である。

実のところ自分自身の油断が口惜しいのである。
今時のバスケットでは終了2分前の10点差など少しも安心な場面ではない。
NBAの影響か国際ルールの変更からか残り2分と言えどもナカナカ時間が過ぎてくれない。
1回1回秒単位で時間を止めて相手方が追いかけてくる。
こちらも最後まで攻めつづけなければならない。
決して守りに入ったらダメなのである。
それで試合の流れの中で「勝った」と思った瞬間があって「しめしめ」とほくそ笑んだ自覚があってかえすがえすこれが我がチームの敗因だったのである。
最大限回数タイムを取って綿密に作戦を練って、それを選手たちに伝えるべきであった。
それを自らの油断、慢心の為に怠って、あっという間に逆転されてしまったのだ。
その作戦の内容について自信も経験もあったのにそのことを伝えずに試合が終わり、それも敗戦であったことが口惜しくてタマラナイのだ。
充分に勝算があった。
勝つ筈であったのだ。
「試合運び」についてはまだリーダーシップを発揮する余力、余裕がいっぱいあったのだ。
アタマを使うことが、割と得意な方だと自負しているので・・・これは多分に自惚れかも知れないが・・・負けない為のアイデアがチャンとあったのに伝え損なったことはまさしく「後悔先に立たず」だ。

NBAの印象的なシーンがある。
時は1993年6月、マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズ対チャールズ・バークレー率いるフェニックス・サンズのプレーオフ決勝戦。
3勝2敗で迎えた第6戦。
フェニックス・サンズは2点差で勝っており残り数秒。
試合の大勢は一瞬決まったかのような場面であったが、残り3秒で放ったシカゴのジョン・パクソンの放った3ポイントシュート見事にクリーンにバスケットネットを揺らしシカゴ・ブルズの3連覇が成った。
負けた側の自宅でくつろぐチャールズ・バークレーのインタビューがあったがとても口惜しそうで来年1年間あるいは一生この試合が自分を苦しめつづけるであろうと答えていたのが印象的であった。

バークレーは当時も一流の選手で、時にはマイケル・ジョーダンをも凌ぐ人気を誇るスーパースターであったが残念ながらチャンピオンリングを手にしていない。
この二人は同い年で共にマジック・ジョンソン、ラリー・バードらと一緒に最初のドリームチームのメンバーとしてバルセロナのオリンピックに出場した。
その時のオチャメな振る舞いで人気を博し翌年の大活躍であったけれど、手に届くほど近くにあったかに思えたNBAのワールドチャンピオン優勝の栄光に浴することは出来なかったのである。

さぞ口惜しかったであろう。
それらのことに思いを馳せるほど今回の敗戦は口惜しい。
「なして今頃?」「それも今頃?」何故なんだろう。
「逃した魚は大きい」という言葉の心理的な真意なのかも知れない。
もし勝っていたら・・・。
それは自分自身の心に残る実質的な引退試合の勝利の味わいを彼ら若者の心に残してあげれたのに・・・なんて考えているのかも知れない。
人生で勝ちつづけることの危険、若い時の成功の危険について古典を読むと口酸っぱく描いてあるが、それでも勝利の喜びの味には何かしら永遠に心を喜ばせる何かがある。
この喜びを知った人は次々と挑戦しつづけ、勝利の甘い美酒を心から味わおうとする。
一方で一度の敗戦で挫けてしまい、懲りてしまい二度と挑戦しない人もいる。

やたらに口惜しがる人もまた成功者タイプに多い。
野球のイチローのようにそれが偏執狂的ともいえる人物もいるが、マイケル・ジョーダンもそういう人らしい。
彼らもまたその勝利にだけ目を向けがちだが数限りなく負けたことも事実なのである。
こうして書いてきて確かに心が落ち着いてきた。ありがたいことだ。モノを書くと言うことの益があらためてしっかりと自覚される。

ありがとうございました
M田朋玖



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