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■ 歴史認識 | 2017. 8.31 |
人間の記憶というのは「出し入れ」をするたびに少しずつ変容するそうである。 にもかかわらず、人の記憶など本当は決定的な証拠となり得ないのに警察とか司法裁判とかでは結構重視されるようだ。 思い出して頭の中で再現するごとに少しずつ修飾され、一部削除され、無意識のうちに美化されることもあり、逆に強い嫌悪感、トラウマの種にもなったりするようだ。 記憶というものは人間の心の中に多大な影響を与えるのであるから、その信憑性・真実味については充分に検証することが場合によっては必要かも知れない。 警察の尋問などでも注意しなければならないのは、尋問の過程で記憶の「出し入れ」即ち想起して語る、それを文章に記録するという作業によっていかようにも無意識的か意識的かにかかかわらず内容が少しずつネジ曲げられて結果的に真実とは全く異なる「証言記録」なるものが出現してしまう可能性だってあるということだ。 或る意味とても怖いことである。 誰もが出来事をいちいち記録やメモをしているわけではないだろうから「歴史」というものも一部の人達の記憶に頼らざるを得ないという一面と近代においては新聞の記事というものが、主たる歴史作成の材料になるのであろうが、新聞記事のいい加減さについてはあらためて論ずるまでもないと思える。 そのような「歴史」というもののあやふやさ曖昧さを前提に置いて考えてみて、おかしいんじゃないかと思えるのが以下である。 「歴史認識」という言葉が日本と中国・韓国の間で常に懸案事項になっているようであるが、これなどどんな歴史上の記録・証言によって分からないような曖昧な「歴史的事実」に基づいてそれをどんな風に「認識」するかで揉めているというのだから考えてみれば笑止千万である。 お互いにかなりの捏造された証言や記録、隠された真実がある筈であるから、この「歴史認識」という言葉の中に不毛の争いの種が含まれているようで、あらためて人間の愚かさが露呈される国家間のやりとりである。 現時点でかなり良好な関係にあると思われる米国をはじめ、幾分好意的と思われる諸外国との間では「歴史認識」という言葉が飛び出す気配は全くないようである。 日本側が中韓に向けて「歴史」を持ち出しているワケではないようであるからハッキリ言って内政干渉とも思える「教科書問題」「靖国神社参拝」の問題を含めて先述した二国の言行というのはまさに「喧嘩を売っている」「イチャモンをつけている」としか思えない。 先日NHK−BS放送で録画した「731部隊」というドキュメントを観た。 相変わらずNHKへの不信感をつのらせるタイミングでの放送内容で「何で今頃?」とか「何でこの時期に?」とか考えてしまう。 日本のマスコミお得意の「自虐的歴史観」を今さら醸成しようとするのか分からない。 何の知識も無く観た人はみんな真実と思ってしまうではないか。 その生体実験(731部隊)の真偽についてはアメリカ側の意図的な秘匿があるとか日本側の隠蔽とかあったとしてもその信憑性についてはまだ議論、精査中であるしNHKがいかにも歴史的真実として報道しているところがケシカランと思える。 ついでに「米軍の原爆投下の真実」とか「日本本土空襲の全記録」とか、とにかく日米間の関係性を悪くするような内容の報道、一方で中韓露の国に対しては「自分たちが非道いことをした。悪かった。」みたいな内容で、何かしら日本国を国際関係においておとしめるような放送なのが不思議でならない。 「731部隊」の悪行は中国、かつての満州のハルビン郊外の大規模な研究所で主に関東軍の主導で行われたらしいが、モチロン日本国政府も関与しているとのことだ。 今回の報道も旧ソ連側のハバロフスクで行われた軍事裁判の「証言記録」を基に放送されていた。 証言者本人の写真映像と肉声であるから真実味がある。 それでも考えてみればそれらの捏造なんて実に簡単なのである。 元々疑い深い性格ではなかったのであるが、自分自身の身辺に起こった訴訟事件を基に深考してみると真実と記録と裁判結果は無関係であると知った上に当方のとても有能な弁護士さんですらそのことを従容と受け入れているらしい節があって益々歴史的真実の真偽については疑いの目を向けてしまう。 1900年の6月20日に中国(当時は清国)で起こった「義和団事件」を扱った松岡圭祐の歴史小説「黄砂の籠城」を読んだ。 ついでに歴史の本を読んで、その事件を扱った米国映画「北京の55日」を観ての感想をまとめて述べるならば映画が一番嘘で、歴史の本が二番目の嘘で本が最も真実に近い・・・ということであった。 新聞などは歴史の本に近いレベルの嘘である・・・と思えた。 真実と新聞には結構な乖離があって「人が書いたもの」など完璧に信じるなど愚の骨頂であるし「新聞」というくらいで事実を調べるのに何が足りないかというと時間が足りない。 その点、史実を基に書かれた「本」となると相当な裏付けが要り、綿密な調査分析を要するので結果的に総合的に最も真実に近いのではないかと思えるのだ。 嘘を書きにくいという側面もある。 その作家個人の責任問題とか羞恥心とかもあるからだ。 その点、新聞とかテレビだと責任の分散化が起こるような気がする。 所謂「歴史の本」がいい加減なのは出版するその国の国情、背景によって内容が侵犯され、隠匿され、加筆され、削除され、微妙な言葉の使い方が変えられ、読まれた時の印象が史実、真実とかけ離れた「作り話」になってしまうことがザラにあるのではないかと思えるのだ。 最近では放送されるテレビ番組や出版物などでも「歴史の真実」というタイトル・内容で当時を再現し、心理的・状況的にあらためて分析する傾向にはあるようではある。 それにしても先述した「黄砂の籠城」は面白かった。 文章に殆んど飾りが無く、文学的興味についてはイマヒトツであったが、物語の面白さは秀逸と思えた。 是非「海賊と呼ばれた男」「永遠のゼロ」「三丁目の夕日」の山崎貴の監督で映画化して欲しい作品の第一である。現在の日中韓の関係性を顧慮すると映画化は当分無理とは思えるが・・・。 ありがとうございました M田朋玖 |