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■ 恋愛相談 | 2017. 8.12 |
仕事柄か本来のキャラクターの為かこの相談を受けることがある。 そうして当然ながら助言を素直に聴いて受け入れる人とそうでない人がいる。 結果的にキチンと聴いて実行して下さる方の場合、それが成就し幸せになることが多く、聴き入れない方の多くはうまくいかない・・・というより停滞しておられるようだ。 元々頑固な人というのは何をやってもうまくいかない・・・という要因もあるのだ。 幾分手前みそに受け止められる方がおられるかも知れないが、これは一般論でありひとつのただの理屈であるので異論もあるかも知れないが提示してみたい。 色恋沙汰というのはそれが出来る人というのは或る意味幸せなことではないかと思える。 自らの性欲を感じ、それを実践するだけの心身の健康を備えている・・・という意味で。 また人生の悦びのかなり大きな比重、部分を占める大問題で、昔と違って見合い結婚というものが稀少になった昨今、婚活にしろ恋活にしろ今も昔もその楽しみ、悦びの根底にあるのは恋愛というものなのである。 それらが順調に進展し結果的に結婚をし、子供を産み育てる温かい家庭生活というものは人間の持つ幸せというものの素晴らしさを表現している典型的なカタチなのである。 さてご存知のように恋愛における心の苦しみは相当なレベルである。 これは当事者でないとナカナカ分からない。 人に相談しても大概ロクな助言は貰えない。 つい最近までこの手の相談を引き受けるテレビ番組などがあったが、視聴していると殆んど全て的ハズレであり、説教的であり結果として相談者の納得を得られず慰めも解決も与えていないように見て取れた。 恋愛と簡単に言うが、少年少女のソレですら生命がけのものがあるのに、大して知識も経験もなく勉強もしていない者が秀れた助言者になり得る筈がない。 それぞれの恋愛には年齢とか職業とか未既婚とかの背景というものがあり、どうしようもない相性というものがあり「出逢い」という名の霊妙な「神の采配」があるものなのだ。 このような前提を考慮して心理的、霊的にある意味高尚な洞察を持って臨むべきなので、自分も含めて殆んど全ての人々は恋愛相談など引き受けるべきではないと筆者は考えている。 さて恋愛の勝利者、即ち相手の愛とカラダを独占し一生の伴侶にする者になる為の努力の方向性があるにはあるようだ。 それはあくまで努力の方向性であって、必ず自分の望んだ結果が得られるというワケではない。 独占という言葉の中には既に愛とは違う心の悪しき習慣が潜んでいるような気がする。 恋愛中には心の中に天使と悪魔がいて、いつも戦っている状態をイメージすると分かりやすいかも知れない。 以下に列記してみよう。 悪魔:疑う、攻撃、支配、嫉妬、追う、恐れる、性欲亢進、欲求不満 天使:信じる、責めない、放任、信頼、追わない、愛する、性欲制御、満足感謝 一目瞭然。 天使でいる方がうまくいく。 ・・・というより少なくとも逃げられない。 たとえ浮気されても帰ってくる可能性がある。 一方で悪魔の状態でいると取り返しのつかない事件に発展することがある。 たとえば現在マスコミで話題になっているストーカーなどまったくもって悪魔の状態そのものである。 自分はどんなことをしても愛される価値のない、所謂自己無価値観が潜在的に心を被っている人々。 その心の深い欠落感を補うように相手を無限界、無制限に追って行くのだ。 そうして相手の心を読まない、読み取ろうとしない、読み取れないタイプの人間がストーカーには多いようだ。 相手があってこその自分への愛だ。 相手の立場、相手の心の分からない人、理解しようとしない人は恋愛不適者ではないかと思える。 まさに恋愛敗者のお手本がストーカーなのではないだろうか。 意外にも人畜無害の人は異性に人気がある。 元々人間は恐れの心を持ちやすい性質を持っているので「相手を恐れさせない」というのは恋愛作法の大原則なのである。 タイプとして強面の人は男女共相手に逃げられやすい。 余程Mっ気の強い人、たとえば社会的に成功した人、身分の高い人ほどMっ気の強い人が多いのであるが、彼らの多くは恐妻家であり、それを喜々として受け入れている風がある。 これは筆者としては不勉強の分野(SとMについて)であるので詳述できないが、散り散りの切れ端の知識ではそういうことらしい。 そもそもサディスティックな人より優しい人が良いであろうし、SMプレイからしてお互いに信頼し合った優しい相手同士でないと危険である。 たかが色恋沙汰などとバカにしたり軽視したりしてはイケナイ。 これは心理学の勉強の最高の教材であるし、人間関係の基礎中の基礎を学べる絶好の機会なのである。 人を好きになる。 高じて愛する、尊敬する、崇拝するなどそれがひょっとして瞬間的、一時的なものであったとしても人生の経験としてかけがえのない宝石のように愛しみ、懐かしみ、思い出す価値の高い珠玉の心のアルバムともなり得るのである。 一方でいにしえの賢者たちの「恋の終わりにそれを思い出して恥ずかしいと思わない人はいない」という言葉もあるようにひどく後味の悪い醜悪な終わり方もあるにはある。 その差は何かと考えるに、お互いに清い心で「与え合う」「ゆるし合う」関係の場合にだけ純愛性の純度の高い恋愛に限りその愛の交歓、会話ややりとりは繰り返し思い出され、それを楽しみ幾度となく懐かしまれる素晴らしい愛の記憶として生涯の貴重な想い出のアルバムにとどめられるのである。 ・・・とは言え多くの色恋、恋愛についてはどうしても苦々しい羞恥と後悔とうしろめたさ、争議、騒乱の火種となりやすいようである。 それは愛と欲望の違いを明瞭に意識できるかにかかっており、愛はそれが純化されるとその関係性において欲望とか嫉妬とか支配とか、ましてやいかにも俗的な金銭の絡み合う余地は全くというか殆んど入り込む隙はない・・・と思える。 そうしてそれを実現できるかどうかはひとえに当事者の人柄・人格・性格・考え方に準拠するようである。 ありがとうございました M田朋玖 |