コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 遺言2017. 7.25

死に際にどんな言葉を遺すのか。
この問題を考えさてくれたのが先頃死病で亡くなった小林麻央さんの「愛している」だ。
残された遺族、とりわけ夫の歌舞伎役者・市川海老蔵氏の涙の記者会見での公表で上記の言葉を見知った時の違和感について書いてみたいと思う。

筆者は心から愛する人を3人亡くしたが、どの人からも遺言らしい言葉は貰っていない。
・・・であるので映画やら小説やらで見聞きした僅かな知識を寄せ集めて想像力を力いっぱい使って考えても「愛している」はどこかひどく不自然に思えるのだ。
何かしら作為的、演技的、劇場的な取り繕い・・・幾らか意地の悪い見方をすればマスコミや世間の耳目を集める為の造り言葉・・・のような印象を拭えないのだ。

「ありがとう」「さようなら」「忘れないで」「子どもたちをお願いネ」「元気で」「ごめんネ」・・・など愛してるに替わる言葉は結構多い。
「私の分まで幸せになって」なんて言う臭い言葉を発する人がいるかも知れない。

いずれにしても職業柄、人間の臨死に立ち会った経験、愛する人、深く愛する人を失った体験からも想像では「ありがとう」、経験では沈黙・無言であった。

本当に心から愛し合った者同士の間で空々しい言葉など不用であるどころか有害にさえ思える。
深い別離の悲しみ、その強い感情に伴う絶望感、厭世観、虚無感、無力感、喪失感、恐怖感、孤独感等々それこそまさに言葉にできない状況・・・。

実際にはテレビでも新聞でも海老蔵氏の記者会見の様子をまじまじと観たり読んだりしたワケではない。
ただその話を人づてに聞いて「違う」と個人的に感じたのだ。
言わば心のトラウマと呼ぶべき個人的に深い喪失体験、残された側の臨死体験を通じて感じ取った正直なこの会見への感想は多分に辛辣であるかも知れない。

それでも思い出したくないけれど脳裏に深く強く焼き付けられた強烈な悲しみのイメージから涙顔と言葉のミスマッチを瞬間的に嗅ぎ取ってこうしてワザワザ書いているのだ。

それぞれいろんな事情があるのだから「どうでもいいじゃん、そんなこと」

確かにそうではある。
死に行く人々と残された人の間には計り知れない未知の落差があって、それは生きている人間には実証的にも論理的にも説明できないのだ。
(こういう話を無謀にも書き始めて果たしてオチが書けるのであろうか)。

人生の綺麗な終わり方、幸福な死に際というのにふさわしい言葉というのはやはり「ありがとう」が最高なのではないだろうか。
メールや手紙のやりとりで頻繁に使われているらしい「愛してる」の言葉はどうしても軽い・・・。
まったく余計なお世話であるが・・・。

それにしてもそれぞれの生は複雑怪奇、奇妙奇天烈、多種多様であるのにその始まりと終わりは何と陳腐で単純で一様なのだろう。
「愛してる」も「ありがとう」も「さようなら」も所詮同じ意味を表現している言葉なのだ。
愛によって生まれ、愛に囲まれて死ぬ・・・それが幸福な死の理想であるのには変わりない。

恨みつらみ、憎悪、怨念、不幸にして誰かに殺されたか事故で人為的に或いは自然災害で強制的に死に至らしめられた人々にとって遺言とは復讐や無念であるにちがいない。
自死を選んだ人々の心はこれまたそれぞれで分からない。
マスコミで話題になる「誰かのせい」「何かのせい」というのには俄かには賛同や同調はできない。
統計上は病苦、うつ病などの心の病気そのもの、生活苦、それこそ怨恨、保険金目的など多岐にわたる。
真の意図は遺言などがあったとしても全くのブラックボックスだ。

ありがとうございました
M田朋玖



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