コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 卆母2017. 6.28

ソツハハと呼ぶらしい。
漫画家の西原理恵子という女性の造語である。
母親業の卆業宣言みたいなことをテレビで述べられておられた。
おもしろい言葉だ。
子供が16才となったので母親をやめられるとのことだ。
子供の自立を促すという意味では良法かも知れない。

筆者の場合、16才で卆母されたとしたら現在の筆者は存在しない。
母親がその力をまざまざと筆者に見せつけたのは20才の時であった。

今でいうフリーター、定職にもつかず熊本市内をウロツイテいた頃、今にも崩れ落ちそうな安下宿でくつろいでいたところに母方の祖父と二人で突然現れて大学(医学部)の受験をしてくれと涙ながらに頼まれた。
モチロンただちに断ったのだけれども、生まれて初めて涙を見せた母の顔を見せられて不承不承受験をすることを承諾した。
(全くもって上から目線だ)

父親との激しい夫婦喧嘩の時ですら泣いたりしたことのなかった頑固で激しい気性の母が俯いてハラハラと涙を流すではないか。
女の涙には確かなチカラが秘められていたのだ。
筆者の頑なに凝り固まった心が一気に溶け出した瞬間であった。

そしてめでたく東海大学医学部の一期生として入学を果たした。
筆者の人生が暗い闇の沼淵から明るい陽光の岸辺に泳ぎ着き、這い出た瞬間でもあった。

その後の医者としての一本道も決して平坦なものばかりではなかったが、高校を卒業してからの2年間の暗い海の底の生活にくらべたら何のことはない。
今でも多くを語ることはできないが死んでもおかしくないような悲惨な日常を送ったものだ。

そういうワケで母と祖父はモチロン父も人生の大恩人なのである。
空から舞い降りた天女が死にかけた青年の躯(むくろ)をサラッと鮮やかに救い上げたような按配だ。
イメージとして。
それがなぜ起こったのか。
それはやはり母の愛、深い愛に他ならない・・・と思えるのだ。
この世界のどこにわざわざ苦労をしてバカ息子の為に大金を使い、時間と労力を費やして動いてくれる人がいるだろうか。

母はとても卆母などと軽く表現できる存在ではなかった。
厳しくも情愛の深い猛母、慈母そのものであったのだ。
これを書いているだけでも涙腺が緩んでくる。
今にも泪がこぼれ落ちそうである。
実際には少年時代から息子を自立させようと働きかけ、何でも自分で決めて、させようとしたフシがあった。

それこそ良い意味で中学1年生、12才の時に卆母を図ったような側面もあるのだ。
或る意味成功し、或る意味で失敗した。
そうして自分の息子が愚かにも人生の最深部に沈んでいた時に見事に救ってくれたのも他ならぬ母だった。

小学校の時に家内の騒乱から逃れる為に家出をして最終的に自分の家のクルマの中で眠り、目覚めた時にはいつも暖かい布団の中だったというのとよく似ている。

生きている間中、母と息子の関係はつづいたと思う。
時に干渉し、説教をし、援助をする。
そうして口論もする。
議論もする。

筆者が丁度50才の時の正月に母は子供たち見守られて・・・とりわけ筆者の枕元への来訪を潮時とばかりに、眠るように息を引き取った。
他界した後も母と息子の関係はつづいているような気がする。

息子の行状が心配でオチオチ安心して成仏できないのだ。
多分。
そんな気がしてならない。
それが日本人の親子関係というものではないだろうか。
永遠につづく親子関係。

「卆母」、モチロン結構なことである。
それぞれの親子の関係性においてそれが好もしい場合もあるとは思う。
しかし個人的には卆母などは軽々には口にしてほしくはないのが本音だ。
自らの存在の重さをもっと自覚して欲しいと思う。
モチロン母であってももっと自由に伸び伸びと生きて良いと思うし、それはそれで大変結構なことだと思う。
子供に縛られ、自由を奪われ身動きのできない状況も或る意味とても気の毒だとは思う。

それでもやっぱり母親であって欲しいのだ。
世界中でたった一人のかけがえのない存在。
子供にとって母親。

日本人の気質、性格、人格・・・。
その質の良否を決めるのはもしかして環境や教育、社会、国家かも知れない。
しかしその個人の人生全体を俯瞰した時に最も影響を与えるのは母親なのではないかと思う。

憂国の士が国防を語るのは誰にでも理解できる。
けれども物事の本質を突き詰めると国を良くする、立派にするという遠大な目標を実現するのに女子の教育ほど重要なものはないと思える。
何故なら女子は成長して母となり国家の礎となる男もしくは女性を・・・人間を育むのだから・・・。

明治4年の岩倉使節団に随行させた5人の女子のうち最年少の津田梅子は満6才であった。
明治維新後、世界の文明文化を日本に取り入れるのに幼い女子を随行させた新政府の慧眼も大したものであるが、その後の女子の教育の草分けとなった津田塾大学の創始者の業績もさることながらこれらの考え方の基礎は既に江戸時代に培われていたらしい。
そういう背景を考えた時に卆母という言葉に出くわした。
そして正直びっくりしたのだ。
これが流行ったらコトだ・・・みたいな。

これは「ゆとり教育」を政府が打ち出した時の衝撃に近い。
そもそも子供ならず大人についても教育というのは一生涯授ける・・・受ける必要があるのだ。
そうして父となり母となった時に人間は一生涯、死ぬまでそれとしてありつづけるのが義務であると思うのだ。
決して軽々しく放棄すべきではないと思う・・・その権利と義務・・・その喜びを。

ありがとうございました
M田朋玖



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