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■ 読書 | 2017. 5.22 |
かなり前から小説家になりたいという夢があって何度か挑戦してみたが、これは才能がないと諦めて今は専ら読む方に徹している。 ・・・というのは最近、小説というものを書いてみて、あらためてその難しさを痛感したと同時に色々な作家の小説を読んでみるにつけ、その素晴らしさを再発見できた・・・というきっかけがあって、単なる本ではなく小説を最近は毎日毎日読み漁っている状態になっている。 面白い小説にくらべたらテレビのドラマやニュースやドキュメンタリー番組も到底敵わない・・・とさえ思える。 面白い小説を読んでいる最中に録画した面白そうなドラマやその他の番組を見ても面白くなくてすぐにテレビを切ってしまう始末である。 多分一時的なものと思えるが、しばらくはこの読書三昧はつづきそうな気配である。 出かける時も文庫の小説を数冊トートバッグに入れてクルマやバイクに乗り行きつけのカフェやスターバックスやドトールコーヒーなどのコーヒーショップや駅のホームや電車の中で夢中で読んでいるので全く退屈するということがない。 ありがたいことである。 本を読む、文字を目で追い理解し楽しむという行為はテレビとかよりも脳の快感をもたらすようで、今のところ完全にテレビが負けている。 何しろどんなに面白い番組も見ていると脳が退屈するのを感じる。 何と言ってもテレビや映画は脳を受動的にし、想像するという喜びを脳から奪うようである。 少年時代からの読書好きは誕生日プレゼントが毎年「本」、たとえばアンデルセンの童話集とか少年向けの文学の全集の一冊とかだったというワケでもなく、成績の良い筆者の親友が無類の読書家で、お互いの読書量を自慢し合うという関係からだったというワケでもなく取っ掛かりはやはり雑誌の青春小説であったことが思い出される。 就学前の5才だったか6才だったかの時から大人の週刊誌に興味があり、モチロン女優さんや今でいうタレントや歌手のグラビアやイラストも良いけれど、なまめかしい挿絵入りの甘いロマンチックな青春小説の吸引力には何かしら何ものをも抑えきれないチカラを感じたようである。 看護婦さんにコッソリ字を教えてもらって読む小説の中の男女のやりとりには心をウットリさせる何かがあったのだ。 当時は富島建夫というロマンス小説の作家に凝っていて、毎週というか毎月というか楽しみにしていた思い出がある。 その小説の中のヒロイン“信子”は今でも心の中のアイドルである。 その時の水着姿の挿絵もありありと思い出すことができる。 大したものである。 まさに6つ後の魂、60までだ。 書店に行くと人気の小説をランダムに見て回る。 特に本格ミステリー大賞とか○○文学賞とか・・・とにかく賞を取ったもの、人気第1位とかを選ぶとハズレはない。 同じ作家の作品でも当然ながら面白いものと面白くないものがあるので、ここら辺は気を付けている。 また古典だからと言って面白いとは限らない。 長く読み継がれているワケであるから面白い筈と考えてはイケナイ。 退屈な物語を、それが名作だからと言って我慢して読むのは人生の時間の浪費、空費であると筆者は考えている。 映画の場合さらにそれが言える。 2時間あったらチョットした勉強ができるではないか。 チームやくだらないテレビのお笑いやバラエティーにもそれなりに存在価値があるのであろうけれどあらためて再発見したこの読書、それも小説を読むという喜びには敵わないと思える。 本を・・・小説を読みながら脳が喜んでいるのをひしひしと感じる。 本屋通いは一日の大きな楽しみのひとつだ。 仕事を終えて入浴し、白いTシャツにショートパンツ姿で長さ15mもある書庫の並んだ20mほどの長廊下に据え置いた小さなソファーの上に寝そべって読み耽る。 小さな文庫本のくれる底知れぬ快楽に浸るのは至上の幸福である。 今は5月、爽風が窓を通り抜け、中庭の落葉樹の緑がさやさやと目を癒やす。 父も母も無類の読書家であった。 母の晩年はテレビの時代劇とハーレクインロマンス。 父の晩年は小さな書庫でのエッセイや政治や歴史の単行本。 二人の祖父はそれぞれ中国の古典と心理学の研究本。 やはり遺伝なのであろうか。 食事やテレビやギャンブルや酒ではなく素面の時の最大の楽しみが我が祖先においては読書であったというのは何よりもありがたいことではあった。 ありがとうございました M田朋玖 |