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■ 真夜中のナイチンゲール | 2017. 4.20 |
竹内まりやの歌曲のひとつだ。 SMAPの中居正広の主演ドラマで「白い影」という物語のエンディングに流れる歌である。 物語と歌詞とメロディーがよくマッチしている。 原作は渡辺淳一の「無影灯」。 不治の病を患った大学病院の優秀な外科医・直江医師と民間病院の看護師・倫子のラブストーリーを横軸に、さまざまな出来事を通して主人公の心の葛藤や苦悩、人生観があぶり出される物語で、筆者の最も好きな作品のひとつである。 主人公のニヒリズム、虚無的態度、言動行動がカッコいい。 病のために痛みと絶望を味合わされ、人生の喜びは、その意味は・・・みたいなものを読者に突き詰めさせる。 筆者が20代で医者になりたての頃、古谷一行主演でテレビドラマ化され、その魅力に惹かれ録画して何回も観た。 モチロン原作も読んだ。 死期の迫った人間の心を、その言行を通して少しく窺い知れると同時に医者として、医療に携わる人間として、ひとつの考え方の参考になる物語、小説ではあった。 人生観、死生観などというと大袈裟に感じられる人もいると思うが、現実としても多くの人が死と戦って生きている。 今現在若くて健康で楽しく人生を送っている人々でも、実のところよくよく考えてみるといつも死と隣り合わせであるのだ。 生と死は、生命の成り立ちとその終焉を思わないでも、必ず不可分なのである。 それでも殆んどの人はそのことから目を背けている。 ・・・というより誤魔化しながら何となく生きているように見える。 そもそも小説というものはそのような事柄を扱うものらしい。 「死」のない映画や小説は殆んどないと言って良い。 今はゲームの世界にだって、日常的におびただしい死があるようだ。 人間は「死にそう」「死ぬ」「死んだ気になって」とか「必死」とか、とにかく「死」をよく口にするが、果たしてそのことについて真剣に考えている人が健康な状態の時に何人いるだろうか。 このコラムを読みながら「死と戦っている」「死と向き合っている」人がおられるかも知れない。 無影灯の主人公も、医師としての自らの病の進展を冷静に検査対象として記録し見つめる、沈着で優秀な人物という側面と、死の恐怖から、のたうちまわるように痛み止め(麻薬)や酒や女に溺れていく姿も描かれている。 理性と欲望と自暴自棄と虚無と孤独とそれらが入り混じった整理されていない心情というものは哲学的にも宗教的にも決して洗練されたものではない。 それは若者らしい苦悩と絶望に満ち溢れたものである。 当然であろう。生身の人間なのだから。 だからこそ共感できるのだ。 この物語は何度かドラマ化されているようだ。 それだけの魅力を持った作品であるし、ドラマとして描きやすいのかも知れない。 「白い影」のドラマとしての出来栄えはともかくエンディングの表題の歌は素晴らしい。 ♪遠雷が春を告げる♪・・・。 ナイチンゲールとはモチロン看護婦さんのことだ。 医者にとっても患者さんにとってもとても有難い存在だ。 医者の手となり足となり、時には頭となり目となり口となり耳となる・・・。 そうして入院患者さんや重症患者さんにとっては、まさしく真夜中の闇を飛び交うまぎれもない「天使」の鳥なのである。 入院経験は大人になってから2度ある。 バスケットボール中のケガ、アキレス腱断裂での手術入院だ。 それぞれ1泊しかしなかったのであるが、夜勤の看護婦さんの存在はとてもありがたく、少しだけ甘く艶めかしい。 それは母性はともかく、女性を隠し切れない修道女の趣きでもある。 それはやはり医者の側からよりも、患者さんからの方が魅力的に映じるであろうことは想像に難くない・・・筆者の個人的経験から・・・。 この曲を聴いていると懐かしさと共に何かしら心を慰められる。 渡辺淳一氏の人生観、考え方には不思議に、どの作品を読んでも、よく共感もし、同調もする。 その死についての感性は、生きる欲は・・・性欲に通じ置き換えられる・・・というもので、生命の終わりを予感した時には激しく高揚し、性愛と同時に純愛も強く欲し、愛そのものの中に溶け込んでゆきたい・・・と願うものであるようだ。 ラストシーンは小説では主人公の雪の中での自死によって終わるのであるが、新しい生命の芽吹きの予兆も感じさせるエンディングになっている。 割と定型的なパターンだ。 ありがとうございました M田朋玖 |