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■ 桜会 | 2017. 4.12 |
昭和60年代の4月1日に発会したので桜会と名付けた若手医師の集まりで、当時は筆者は30代前半で40代のドクターと計5人で月1回の会合をすることになった。 当時流行していた市内唯一の「カフェバー」でのことである。 発起人の先生のウチ2人は亡くなって1人は退会されたので、発会時のメンバーは筆者を入れて2人、現在の会員数は10数人である。 最初は自分が会長であったが、チョットした内紛があり会長の地位を追われた。 元々勉強会をするのが好き(筆者が会長の時代)で食事前には講師の先生を呼んだり内部の持ち回りで分野を問わず学んだりする機会としていたが、筆者が会長を降りてからは只の会食会になってしまった。 「ただ集まって会食をする」というのが苦手で、月1回の例会も年に1〜2回の参加にとどまっている。 チラッとでも勉強した後は酒も食事もおいしいのにと思うのだけれど・・・。 そういう風には考えておられなかった先生方も結構多かったのであろう。 少し残念な話である。 それはさておき同じく桜会という呼称の会が市内にあって、旅館の女将さんの会である。 これは全員そろって集合写真がポスターとして実在していて、どこかしらなまめかしさをたたえた艶々しい笑顔で写されていて、今思えば結構垂涎を禁じ得ない代物(ポスターが)と思えるが、何しろ当時は若かったのでそこまでの引力を感じなかったのはかえすがえすも残念なことである。 桜会という名称はどちらかと言うと右翼的でモノモノしいが中身はどちらもとても甘やかしくロマンチックなモノである。 筆者が所属している会は数え上げると結構多い。 医師会を筆頭に医学系の各種学会、市内のバスケットボール協会、青年会議所OB会、倫理法人会、ライオンズクラブ。 ロータリークラブはやめてしまい、それと表題の桜会である。 医師会と同時に医師連盟にも入会していることになっているが後者は政治団体、前者は学術団体である。 会に入っているメリットというのは色々とあると思うが、入会の目的は何らかの安心感なのではないかと思える。 集い合っていると、人間という存在は理由もなく安心するのである。 デメリットというと何よりも時間を取られるということに尽きる。 会費とか付随する諸費用の問題もあるとは思うが時間は大きい。 ・・・で、時々全部やめてしまおうとかと思う時がある。 それは多忙とかヒマとか無関係でフッと「思い立つ」というレベルの思いつきであるけれど、限りある人生の時間を有効有益に使うのに少し邪魔になっているのではないかと時々真剣に考える。 自らの精神の世界、知識、情報を集めるのに人との会話にはあまり重きがない感覚があって、それらを得るのにやはり何と行っても読書なのではないかとあらためてつくづく思えるのである。 これは学生時代の実体験に基づくのであるが、一度学業成績を一気に上げる必要が生じて講義を真面目に受けたり教科書を必死に読んだりしたことがあったが、これらは殆んど良い成果を得られなかった。 ・・・で色々と試した結果、3つの方法が最も実効性、即ち「成績を上げる」手段として優れている・・・と確信した。 以下である。 @過去問を徹底的に習熟する A過去問の解説を良く勉強する B授業・講義を受けない これを一年間実践してみたところ成績は上位ヒトケタになった。 これらの経験から人と集って会話するのも良いけれど、こと勉強の成績、それも試験勉強でなくてもキチンとした結果を出すのに独習・独学に優るものはないと考えたワケである。 世界的な建築家の安藤忠男氏も大学卒業者ではなく1年間の激しい独学によって得た“実力”であるらしい。 ロバート・レッドフォード主演の「コンドル」という昔の映画があって、これはCIA職員で世界中の本を読むという仕事をさせられて、それで身につけた知識や情報でもって権力者、大組織と孤軍奮闘し戦う・・・という物語で、かなり面白い作品であるが、これも「読書」というものがかなり大きな力を発揮することがあるということに気づかせてくれる。 各種セミナー、講演会、学校、塾というものもそれはそれで有難くもあり有益でもあるが、こと効率性において個人のレベルでは独学、独習即ち読書に優ると思えない。 ただし体験型のセミナー、感情を揺さぶる洗脳型セミナーにおいてはこれとは異なる評価をしなければならない。 この場合「人の話を聴く」ということが一種の感動を伴って得られた時、それは単なる知識や情報の取得に大きく優ることがある・・・けれども人間はどうしても「忘れっぽい生き物」」である。 貴重な情報や体験も時間の経過と共に忘れ去られてしまう。 ・・・であるのでいつも携えている小さな愛読書に優る「教師」はいないのではないかと筆者は考えるのである。 繰り返し記憶を呼び覚まし、刻み付け、実行に移させる・・・という意味で。 どんどん脱線していってこの文章がどこに行き着くか分からなくなってきたが、いずれにしても「桜会」というぐらいでパッと咲いてパッと散るというのが「会」というものの常態、本態であって一部の宗教団体や秘密結社、組織、暴力団を除いて常識的人間関係に基づいた「会」など、その中心人物がいなくなった途端にいっぺんに霧散消失してしまう宿命・運命を持っているのである。 それらに依存するなど個人として、生き方として、少し危険なのではないか・・と思えるのだが・・・。 ありがとうございました M田朋玖 |