コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 或る人生2017. 3.25

高校時代からの親友の話である。
42才で亡くなった時、お通夜の晩には小さな葬儀屋の薄暗い控室に僅か4人の親戚か友人と思わしき女性だけが
お棺の前、部屋の片隅で寄り添って固まり、どちらかというと狭い空間が広々と感じられる程、空虚さと裏寂しさに包まれていた。

小学校時代は良く知らないが、本人の弁では頭が良く活発で明るい性格であったそうな。
両親は市内でも有名なキャバレーの経営者で裕福であったらしい。

豪邸に住まい、一人息子で多少甘やかされていたかも知れない。
中学高校は筆者と同じ中高一貫教育の進学校で、ハンドボールが上手で学業成績も良かったように記憶している。
スラリとした長身に甘いマスクのハンサムで、気持ちも優しく快活で交友関係も当時は割とマトモであった。

それが一変したのは中学3年の時である。
何かの拍子で自らの出生の秘密を知ってしまったようなのだ。

鹿児島市の親戚の家から幼い時に子供の無かったM家に養子として迎えられたことを・・・。
実の親と思っていた両親が実際はちがっていた・・・という精神的ショック・・・そして実の母親から捨てられたという思い込みと悲しみは彼の人生を急転直下、一気に狂わせてしまったようだ。

その本人ではないので、その内面を正確に窺い知ることはできないが「心の痛み」の強烈さはその後の人生を漆黒の闇に落としたのは事実であるようだ。

高校時代の成績は留年スレスレ、つまり殆んどビリ。
スポーツは一切やらなくなり、寮を出ると酒やタバコ、遊びに溺れた。

生来、女性にモテる性質らしく艶福家であったが、所謂「女好き」というワケでもない・・・。
その為か生活全般が、遊惰に流れ、タガのはずれた風呂桶のように全くとりとめのないバラバラの人格の持ち主になってしまったように見えた。

この時にはもう既に死んでしまっていたのかも知れない。
筆者が開業医として郷里に帰って来た時は2万円とか3万円とかを無心に来るほど落ちぶれ果てていた。

義両親の救けもあってか小さなスナックを持たされ結構繁盛していたようだが、アルコール依存症になり昼はゴルフ、パチンコ、夜には麻雀と、まるで真面目に一生懸命に親に復讐するかのように自分を愛すること、大切にすることを忘れ自堕落な毎日を送った。
そんな生活がいつまでもつづらけれる筈はなく、とうとう病(肝硬変)を得て30代には我が医院に最初の入院をした。

それでも病院食は一切食べず、毎日出前のラーメンを食べ、野菜を一切取らずアルコールとタバコをせっせと自分の肉体に流し込み、自己破壊的に心とカラダを自傷した。

すると今度は医学的には理屈どおりに喉頭癌を患い、声を失った。
その病が癒えても生活はあらたまらず悪性のリンパ腫に罹患し、本人の希望どおり見事に死亡した。

実の母親との関係も不調だったようであるが、或る時当院に現れて一切支払われていなかった病院代を全額払って鹿児島市に帰って行った。

本人はそれら母親の行動にも何の興味も感動も示さなかったようで、精神的には何も変わらず晩年には市の生活保護を受けていたが、或る時交通事故の加害者となりヤクザの関係者の追い込みを受け筆者に50万円の借金を申し込んだが、死ぬのが分かっている病人にお金を貸すワケにもいくまいと一旦は断ったが、我ながら、どういうワケかすぐに追いかけて郵便局から下ろした50万円をトボトボ歩く後ろ姿に手渡した。

ただ「ありがとう」とだけ言って去って行った。
それが生きている彼の最後の姿であった。
その後ろ姿は特に憔悴している風でもなく無感情無表情で、相変わらずひたすら、飄々淡々として何の屈託もないように見えた。

或る生き方として、それはそれで、思い切り好きなように生きたわけであるから、本人としては、まんざらでもなかった・・・のかも知れない。

ありがとうございました
M田朋玖



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