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■ ダイエットあれこれ | 2017. 3.14 |
コラムの内容で結構読まれているのが筆者のダイエット問題を扱った作品であるようだ。 最近は男性でもこの系統への興味関心は並々ならぬモノがあると思える。 引き締まった腹部、腹筋の「割れ」、熱い胸板、シャープな顔の輪郭など多少ナルシスチックに流れるキライのある最近の男性陣の思惑もあるようだ。 先述した「RIZAP」という会社もこのダイエットを応援するトレーニングシステムを売っている・・・と聞く。 その壮絶なトレーナーとクライアントのやり取りはまさに生命がけとも呼べるほどの緊迫感、緊張感にあふれるものだ。 たかがダイエットではないのである。 豊かな人生、幸福な人生を売っている、買っている・・・というような精神的レベルであるようだ。 こと「痩せる」ということが彼ら、彼女らにとってそれほど重要であったと知ることは或る意味とても勉強になった。 「痩せる」という目標達成のために人生生活全般に対しての自己管理、克己、目標設定などなど、ある意味、自己啓発の実践そのものではないか・・・とあらためて思い至ったワケである。 筆者自身の体験では78kg〜79kgの壁に直面してこれを敢えて乗り越えるべきか、或いはこのままの体重にとどまるべきか迷っていたが日常生活上、仕事上の問題や、他者の評価の問題もあり「とどまる」ことを選択している。 モチロン、特に理由はないのであるけれど「もっと痩せたい」という願望、欲求が心のどこかにあるにはある。 しかしながら冷静に考えてみると「もっともっと」がひどくなって、無用に、必要以上に痩せることに何の意味もないことにも気づかされる。 多くの人、特に女性に多いのであるが必要以上に痩せたが為に「老けて」しまった人、もしくは拒食症(摂食障害)になってしまう人もおられて、それらについての恐れは今のところ小さいものであるけれど、初期の段階で用心しておくことが賢明な判断ではないかとしみじみと考えている次第である。 「痩せれば美しくなる」「愛される」「自分が変われる」「痩せさえすれば・・・」なんていう思いが頭に浮かんでくる予兆や感触は心の中に微かにあるので今のうちに退治しておくべき欲望がこの「痩せ願望」というものではないだろうか。 いずれにしても何事もホドホドが良いと思えるのに「もっともっと」と流れやすいのも普通の人間の自然な心の「クセ」なのである。 ダイエット中毒、ダイエット依存。 この小さなきっかけでとても悲惨な摂食障害・・・。 これは結構シビアな表現であるがネットの写真などを見れば確かな印象として捉えられるであろう結末であるので。 何事も、どんなこともホドホドを心がけることは自分自身でも胆に命じている。 「これくらいでいいか・・・」という満足とか自己称賛は人生の色々な場面で絶対的に必要なものなのかも知れない 豊かな未来、確かな「今」の為に。 断食やさまざまな運動負荷によって75kg、70kgを手に入れるのは、それを意図すればただちに実行できることであるが、いかんせん日常の仕事、生活パターンはいったんリセットしなければならず、それらの喜びと犠牲を強いてまでも到達すべき課題とは思えない。 何しろそれら(70kg〜75kg)を実現した時に現れるのは、こけた頬、貧相な肉体、それに腰に巻く必要の生じたベルト・・・、特に最後記したものは筆者の最も好まざるファッションアイテムなのであるから・・・。 ありがとうございました M田朋玖 |