コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 「犯罪」2017. 1.21

熊本市の大型書店TUTAYAに入ると、そこはまるで豪華食材のマーケットのようにおしそうな本が杓子定規に、すべてが直線の交差以外にどんな曲線も乱雑も寄せつけず美しく整頓され入店者を、人々を圧倒していた。
それは人間の選択と入手という欲求を見事に弾き返す力を持っているようにも思える。
・・・それで流涎を禁じえない程の御馳走なのに、そのあまりの量と質の高さの前にたじろぎ、とまどい、まよい、結局は何も購入せずに出店してしまうことが多い。

熊本市内で会食の予定がある時に殆んどルーチンに立ち寄るのがJINSという眼鏡店とZARAという国際的アパレルブランドのお店と、このTUTAYA(書店)である・・・けれども何も買わないで帰ってくることが多いのに会食と二次会(これは大概中級程度のクラブ)であるが、率直に言ってそれほど楽しいものではない。
人と会話をしながら食事をするというのは、ただカルテを書きながら仕事をするより特別に愉快な気分になるワケではない。

けれども多くの場合、個人的には会食というものが仕事の延長線上に存すると考えているので避けて通るワケにもいかない。
それでメガネ屋、ブティックそして本屋・・・といった楽しみのレベルのメニューを行動パターンの中に取り入れている。

そうしていつものように市内で飲んでホテルに帰る前にコッソリ立ち寄るのがタバコ屋と同設されている「街角の本屋」で、そこには新聞や雑誌の山の中に卑猥な雑誌や写真集に混じって、いくらかの文庫本が置いてあって、それは殆んど珠玉とも呼べる奇本・奇書というワケではなく数少ない選択肢の為に、それらがさらにおでん屋のこんにゃく、ラーメン屋のぎょうざ、寿司屋の刺身みたいな感触で選んで買うという行為が極めて楽で、大概勢い込んで購入してしまう・・・というより店に入る前から買う気満々になるのである。
不思議である。

そこには70才台か80才台かの白髪を結い丸めた上品な色白の女性が一人で切り盛りしており、いつも酔客で賑わっている風でもないが、さりとて裏寂しく朽ち果てたという感じでもない。
それなりに長い風雪に耐えながらも少しずつ小さなイノベーションを重ねながら生きつづけている・・・といった風である。

筆者にとってこの店はまさに都会の中のオアシス。
ほんの1〜2坪しかないその至高の空間は強烈な癒やしを心に呉れる。

ここに似た場所が東京日本橋のJRの駅のそばのガード下にあるが、そこは猥褻な写真集や雑誌、週刊誌にあふれかえっているが文庫本の選択に難があるためか熊本市の店と比べると上品さにおいても客層においても若干劣っているように見えるが気のせいかも知れない。

そこで遭遇した本がフェルディナント・フォン・シーラッハという作家である。
本屋大賞で1位という帯が殆ど目に入らぬウチに立ち読み段階で惹き込まれその世界に魅了されてしまった。

・・・で、その本のタイトルがそのものズバリ「犯罪」である。
お店の人が頼みもしないのに丁寧に紙のカバーを付けてくれたその720円の小さな本をほかの雑誌と一緒に着物の懐に入れて駅前の東横インに帰って読書灯を付けて深夜まで夢中で読みふけった。
おかげで翌日は睡眠不足だ。

「犯罪」というのは人間の営みの中で実のところとても身近なものなのだ。そうしてそれらに手を染める動機というものは、悪意だけだはない。そこには愛も善意もあり、有り余る富もありの能力もある。もちろん貧困も無知も心の弱さ、その根底にあるものなのだ。その上「運命的な偶然」という警察が好まない「動機」もあるようだ。
それでそれらを意識して避けるか無意識にハマってしまうのか。
幸運なことに偶然それらから守られて一切、微塵もそれら(犯罪)の影から自由でいられるか・・・。
ここらは人生において結構重大な問題なのかも知れない。

意外なことに、この短編小説集の最後の章を読むと人生における成功と幸福の法則を読み取ることができる。それはやはり人間同士の愛であり誠実さ善良さ素朴さ、与えること、篤い友情などなのである。深い感涙と感動とともにそれらを味わうことができたのもかなり幸運なことであった。
これらの物語が真実に基づいて書かれているとすれば、その司法制度について深考するとき、いくらかの読者はドイツという国を少し好きになるかもしれない。

ありがとうございました
M田朋玖



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