コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 「だまされる」ということ2010.10.15

ここ数年間或る人物によって完全に騙された・・・という経営上のトラブルが今年の4月に発覚して、自らの愚かさを思い知ると同時に一連のこの経済上の不祥事の顛末を考えるにつけ、自分の医者としてでなく経営者としての心のスキについて少し考えてみた。

「だまされる人」というのは、何らかの「欲望」を持っているから騙されるワケで、無欲の人は普通騙されにくい。
自分のこのだまされた 顛末について思い返すに一番の欲望はやはり「野心」であった。
事業を拡大して収入増、経営基盤の安定、幹部職員の昇給、待遇改善、何よりも何がしかの名誉欲がありはしなかったかと自らの心に正直に問うた時に必ずしもキッパリと「否」と言えない・・・ということに気づき、自分自身心から恥ずかしくなってしまった。

常に自分には「野心」などはないと思っていたし、しばしば職員の人々へも公言していたからである。
野心を持つということは必ずしも悪いことと決まったわけではないが、所謂志とか公心と比べると、比べものにならないくらい程度が低いし、その上詐欺師ペテン師どもの格好の餌食にもなりやすい心の有様だからである。

野心があって人を信じやすい「おひとよし」なら騙されて当たり前であるが、結果的には天も良くしたもので騙した人々は困窮し、騙された人々はさらに富むということが多いと聞く。

約半年間くらい不祥事発覚からの事件の流れを見ていると、騙した側の動顚、慌てぶり、困惑ぶり、困窮ぶりを漏れ聞くにつれ少しづつ「気の毒だなぁ」という同情心まで持つに至っている。

ありていに言えばこちらがかなりの高額のお金を騙し取られて収入が半減し、たくわえもほぼ0になって借金も膨らんで怒り狂って、或いは落ち込んで、自暴自棄になって・・・という風に自然になるのであろうけれども、意外にもますます心意気は軒昂としている。
騙された時期の数年間のモヤモヤとした感じ、霞のかかったようなドンヨリとした感覚が無くなって何だかスッキリとしている・・・のが有難い。

世間には経済問題と心が明瞭に連動する人とそうでない人がいて、筆者の場合後者に属するだけなのであろう。
幸か不幸かこのような不正事件では、割りに淡々とモノに処することが出来、我ながら有難い気質と思える。
考えてみると「利用される」とか「騙される」というのは、その被害(?)にあった人に何らかの価値があったワケで、その価値は金銭に限らず女性であればその肉体とか容姿とか愛情深さとか美しさとか優しさとか明るさだとか癒やし系であるとか、或いは利便性であるとか・・・とにかく周囲の人、騙そうとする人にとって人にとって何らかの価値を有していたということであるから或る意味しあわせな人々であると言えなくもない。
「騙す価値もない」「利用する価値もない」ことの方が何だか社会的にはオソロシイことのように思える。

実存主義的に表現すれば「無価値な人間」というのは「有害な人間」と同様に社会的には存在し難いであろうし、時には抹殺されるかも知れない・・・と思える。

今は保険金の問題もあったりして少しヤヤコシイが「保険」というのは物凄く危ないお金で、無価値どころか一般的には有害とさえ思える人間や出来事と考えられていることが金銭的価値を有する存在に変えてしまうチカラがあるからだ。

事故や病気や災害や死亡などマイナスな出来事が一瞬にして金銭に変わるのであるからこんな恐ろしい不気味な制度は無いと思える。
保険制度と同じく裁判制度も似たところが少しあって、事故や犯罪や障害が詐病まがいの行動の結果でも、裁判官や裁判員の思惑で善悪正邪が反転してしまい、本来の目的である正義の実現に至らなかったことも実際には結構多いのではないだろうか。

いずれにしても騙す側も騙される側も何らかの欲望を中心軸にまわっていく役割存在であるから、こういう事態が発生したならば自らの心に正直に正対して欲望の程度や志の高低を一度じっくり検討してみる必要があるのではないだろうか。

これは自問自答の為のコラムであった・・・いつものように・・・。

ありがとうございました



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