[戻る] |
■ 我慢と頑固について | 2008. 5.23 |
世の中で一番損な性格というと、この「頑固な性格」かも知れない・・・とつくづく思う。 「癌」という厄介な病気も「頑固」な人が多いらしい。 それこそ「ガンコのガン」だ。 癌になりやすい性格というのがあって、それはC型性格と呼ばれる。 それは「まじめで自己主張できず、従順で大人しく我慢強い性格」ということになっているが、我慢強さはともかく筆者の限られた臨床経験からすると、当っているところもあるが、やはり「頑固な人」の方が多いように思える。 今日も、或る友人でもあり患者さんでもある男性が、二ヶ所の癌が見つかって色々治療しているらしいが、この人もとても頑なな人で、人の話など殆ど耳を貸さない頑固な心の持ち主であった。 ガマン ガンコ どちらも何かしら良くない状態を想起させる響きがある。 これは健康問題ばかりではない。 人生の幸福において最も大事な要素である、人間関係についても頑固な人というのは大きな損をしているように見える。 まず、頑固な人は人の話を聞かないから大事な情報や知識が入りづらいであろうし、言うことを聞いてくれないから人が近寄ってこない。傾向がありはしないか。 その上人に好かれることもなさそうだ。 あまり良いことはなさそうだ。 ・・・にも関わらず、「自分は頑固な方だ」とキッパリとやや自慢げに言われる人が多いのには正直驚いてしまう。 人間関係だけでなく、頑固であるというのは或る意味加齢による心の固さとも言えるし、若者であれば愚かさの証とも捉えることができる。 そもそも人間というのは、油断して毎日の勉強や修練を怠ったりしているとすぐにアタマも心も固まってしまうように見える。 若い人でも、少し知識や教養の欠ける人程頑固な感じがするし、堂々と「自分は頑固である」と曰う傾向があるようだ。 年配の人でも自然にしているとどんどん固くなる。 カラダも運動や体操をしないとすぐに固くなるように、アタマもココロも意識して柔かくするようにしておかないとすぐに固まってしまうようだ。 用心、用心。 悪性の病気も、悪い性格も、どうも「ガ」がつく。 「我」というものの厄介さと結びつけているのだろうか? 無私とか克己というのと同義だそうで、社会で生きていくにはとても美しく望ましい心の態度である。 無我というのは、どちらかというと陶酔感を伴った快楽の境地を思わせるし、悟りの境地とも受け取れる。 無私無我とまで行かなくても、我慢とか頑固というのは、言葉の響きとしてもあまり良くない。 我慢とか頑固とか言うのは人間社会では自然的に生じる人間の持つ根源的感情と欲求に基づいている。 それは「恐れ」と「安全欲求」だ。 頑固な人というのは心の根底に深い深い恐れを抱いていることが殆どだ。 どういう恐れかは人さまざまだが、例えば「傷つきたくない」とか「見捨てられたくない」とか「バカにされたくない」とか自分のエゴ、つまり「我」を守る為のものが多い。 とりあえず言いたいことを言わずに我慢するとか、人の話を聞かず「頑固」でいれば「恐れ」を感じずに済むし、自分のエゴの「安全欲求」は満たされるとエゴそのものが勘違いしているのだ。 我慢も頑固も、真実は少しも恐れを解消してくれるわけではない。 「恐れ」という感情を厚いドラム缶に入れて封印しているだけである。 我慢も頑固も暖かい愛情と深い信頼関係によって少しずつ溶け出す。 そうして最終的には恐れを克服し、愛への道を歩む筈であるが、殆どの人々はそこまで行かず、人生を終える。 それは何かしらの先述した悪性の病気であり、自殺であり、事故である。 しかしこれらは、人間の社会ではあまりにもありきたりで日常的に起こっているので、殆どの人は誰も心の奥底の問題にまで思いをいたさないようだ。 追記@ マッサージや柔軟体操やストレッチでカラダを柔かくするだけでも愛する人、愛に溢れた人の優しく暖かいハグでも心は柔かくなる。 モチロン暖かい海水や温泉でも、美しい大自然や星空でも心地良い瞑想でもそれは起こる。 追記A 大峯千日回峰行(おおみねせんにちかいほうぎょう)という荒行があって、深夜に出発して往復48Kを16時間かけて毎年5月3日から9月23日まで9年間かけて歩き抜ける苦行だそうだ。 その満行者は1300年の歴史で2人しかなく、その2人目の満行者、塩沼亮潤さんによれば、一歩一歩「謙虚」「素直」と心の中で唱えながら自然と一体となった時、氷の上を滑るようになめらかに歩けるようになったそうだ。 「謙虚」「素直」というのが、「我慢」「頑固」の対極のある言葉のように思える。 ありがとうございました たくま癒やしの杜クリニック M田朋久 |