コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ ファッション化2022. 3. 5

筆者の元々の喫煙の動機は少年時代に感じた単純な好奇心とその情緒的側面、即ち「カッコイイ」から「無理して喫っていた」・・・と言える。
こんな「イガラ」っぽくて煙たいモノをどうして大人達が好むのか!?・・・と訝しく思いながらアルコールと同じく「大人の世界」に憧れてそれをたしなんでいたという風に理解している(今はソレが美味しいから喫って味わう)という目的と動機が殆んどを占めるようになった。
今や社会的には「日陰者」「異端者」にされてしまった喫煙者。
個人としては自室や野外でコッソリ喫う羽目になってしまった。
今や喫煙は少なくとも社会的・集団的には「ファッション」としてかなり下等な類に成り下がってしまった感がある。
今は「喫煙しないこと」が良質なファッションとされているが、個人的な感覚では相変わらず喫煙は「カッコイイ」と見える。
それは少年時代の新鮮な脳髄にしっかりと刻まれたモノらしくそうそう簡単に消え去るものではない。
父親が「タバコなしなら死んだ方がマシ」などと放言していた。
堂々と。

クリント・イーストウッドの出世作「荒野の・・・」シリーズ。
マカロニウエスタン(イタリア製の西部劇)でも主人公のガンマン、用心棒は常に葉巻をくわえていた。
これらの作品のモデルになったのは黒澤明の「用心棒」らしいが、この映画では主人公の三船敏郎に長い楊枝をくわえさせていた。
小道具としてはタバコ・葉巻と同様の「ファッション」と捉えている。
中村敦夫(後に政治家になった)というニヒルなテレビ俳優さんは大ヒット時代劇ドラマ「木枯し紋次郎」でこれまた長い楊枝をくわえていたが、この「何かをくわえる」という行為所作は男のファッションとしてやはり「カッコイイ」モノなのではないだろうか。
このような経緯から喫煙における「くわえタバコ」というスタイルは今でも強烈にカッコイイファッションなのである。
個人的には。

それはさておき全ての行為、仕草、行動、衣類、持ち物、クルマ・バイクの運転、趣味、娯楽、スポーツ、仕事・・・の動作、ふるまい、書き物、検査(医者の行為)などありとあらゆる「作業」を「ファッション化」するコトは実のところ可能であるので、ひとつひとつを「ファッション化」と「意識」して「すれ」ば物凄く「カッコよく」なるのではないだろうかと筆者は考えるのである。

現代人の必須アイテム、スマートフォンにしろ仕事中にコーヒーを飲む、カルテを書く、文書を作る(診断書・診療情報提供書等々)なども「ファッション」と捉える(化する)とさらに仕事や遊びが楽しくなるのではないだろうか。
或る意味「カッコをつける」ということを日常的にするワケであるけれど基本的には「どんな人」にも「コレ」は可能である必要もない。
或る意味「個人の感覚」がすべてで他者の評価などは絶対取り入れない方が良い。
自分でカッコイイと思えればそれで良い訳で、このことについてはあくまで「独断と偏見」を強くお勧めする。

「自分で自分がカッコイイ」と思えることで全てに優先させることが極めて大切で重要となる。
この場合、他社評価的には「個人のセンス」が問題ともなるが、そんなことはどうでも良い。
繰り返すがあくまで自分で自分をその「ファッション化」させて「カッコイイ」と感じることが肝要なのである。
多分にナルシスト的そのものであるが、他人の評価を全て無視すれば「個人の感覚」がこの「ファッション化」の全てであるのでこのあたりはしっかりと胆に銘じておきたい。
またこの「ファッション化」を通じて得られる「余禄」もあって、それは「自意識」が良い意味で研ぎ澄まされる。
つまり自分の存在、行為、言動などの全てを「意識」していることで一種の「悟り」の境地に似た心理状態を得ることができる。
それは究極的に自分が「虚無」。
最後にははかなく滅びゆく肉体と極めてうつろいやすい精神を持ち、そしてこの一世を「遊戯三昧」しているという自覚が生じるかも知れない・・・というほのかな期待を得られる。
「ファッション化」とは良質な「自意識」と言い換えても良いだろう。
そう言えば「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」という本があった。
勿論購入はしている。

ありがとうございました
M田朋玖



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