コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ レクサス愛2020.10.19

7月4日の人吉洪水で水没させてしまった我が愛車レクサス600hが10月1日(木)に帰って来た。
「長いお別れ」だった。
12年前に新車で購入して21万km走行。
まるで「古女房」のように自分の生活に深く馴染んでいてそれほど深く「有難い」とは思わなかったが、長い「不在」が「物凄く淋しかった」。
そのことをあらためて自覚した。
たかがクルマ、されどクルマ。
個人的にはクルマとバイクの人生、生活における比重は極めて高い。
勿論それの筆頭は健康と生命であるけれどバイクやクルマは感覚的に生命の一部に近い。

実際にクルマが長い修理期間を終えて「帰って来た」時には思ったほど感激は無かったのであるけれど乗り慣れてくるとその「便利さ」「快適さ」「日常性」「高い移動能力」「活動性」がとても「有難い」と感じる。
勿論代用のクルマは知人の業者の方や会社からすぐに用意して貰って調達したのだけれど愛する「レクサス」ではない。
長年連れ添って愛した「古女房」と言った存在だ。
とりたてて愉快とか面白いというより「ピタリ」。
日常生活にピッタシおさまったという感覚である。
そういう経過を経て再会したレクサス。
それがイヤに嬉しい。
多少大袈裟に表現すると失くした指が生えて来たという感じだ。
何しろ公共交通機関の貧弱な田舎住まい。
クルマは生活必需品だ。
当地の水害でもすぐに社会に要求された耐久消費財の筆頭はクルマであった。
買物や仕事、通勤通学など生活のあらゆる場面でクルマを必要とする。
そういうワケで高齢者ドライバーの問題も田舎と都会は分けて考えるべきだ。
筆者の場合そう言った生活必需品ではないが「遊び」や「余暇」の中心的存在。
そのことをしみじみと思い知った今回の修理期間3ヶ月であった。
それが無いことに耐えて、そして渇望するように修理されてくるのを焦がれて「待った」。
思い出してみると悪い期間では無かった。
日常の普通の生活に溶け込んでソレが意識されず、特に感謝されない物品や人にと漏れ貴重な類が多く、敢えて求めているモノが実はどうでも良いクダラナイ物品や人であったりする・・・ということを。
鮮明に承知し理解する手掛かりになったという意味で意義深い。

10月1日に納車(?)された愛妻(クルマ)はたくさんの「幸運」を引き連れて戻って来たようで、何かしら日常の全てが調子良い。
特に患者さんの治りが良い。
治療軽快率が2割増しといった実感がある。
患者さんの「楽になりました」「よくなりました」の言葉ほど嬉しい言葉はない。
勿論この仕事柄御礼の言葉より嬉しい。
その他の物事が非常にスムーズだ。
良きコト、素晴らしきコトが連続して舞い込む。
また「シンクロ」も多い。
偶然が多くなって「宇宙のメッセージ」かなと思うくらい。
貴重な情報が今の生活に、我が身に飛び込んでくる。
嬉しい限りだ。

ところでレクサスはとても高価なクルマであったが、筆者の所有するソレは古い型(初期型)で、今は新型がチラホラ走っている。
それは一見とっても高価そうで贅沢に見えるが少しも購買欲や所有欲をそそられない。
ひとつに価格が高すぎる。
それ程のお金持ちではないのでそれらの商品に手を出すほど余裕があるワケではない。
また筆者の旧型レクサスは市場価格が50万円から100万円。
売却するとしたら20万円だという。
それなら持っていて壊れるまで乗った方が「お得」だ。
その上今回の修理は「保険」で、尚且つエンジンとバッテリー(ハイブリッド)が新品(?)になり後10年は楽々乗れる。
元々「永く乗る」つもりだったので「引き寄せ」の法則が作用したのかも知れない。
いずれにしても「結果オーライ」というワケだ。

ただしレクサスはあまり楽しい車とは言えない。
旧型なので見た目も「ゴージャス」とは言えない。
それでも落ち着いたシックなデザインとその性能の良さは世界中から受け入れられたようで「大ヒット」したようだ。
内外装のデザインにひとつの自動車のセダンとしての普遍性を感じる。
個人的にはとても「美しいクルマ」だ。
最近のクルマと比較しても少しも古くない。
イヤ新しいデザインよりデザインが洗練されている。
さらに何とも表現し難い「乗り心地」の良さがって「オモシロクナイ」けれど「アキナイ」ということで
「今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。愛しています。レクサス様」
修理していただいた方々に深く御礼を申し上げたい。

ありがとうございました
M田朋玖



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