コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 愛の苦しみ2020.10.12

2020年(令和2年)の9月は近年になく辛い月であった。
毎日が「針のムシロ」で心の中が黒岩のように重苦しく哀しみと怒りと淋しさの入り混じった複雑な感情が胸底を中心に全身のすみずみに沈殿して我が心を苦しめる。
まさしく「9月」ならぬ「苦月」であった。
僅かな「光」は10月への微かな期待と易占いによる「良い卦」や何人かの相談者の人々の絶妙な助言である。
ありがたいことだ。
その「苦しみの内容」はいずれ詳しく披露してみたいが今は周囲の人々への配慮から差し控えている。

今回の学びのひとつに、世の中には「お金で解決」できないことが結構ある・・・ということで、多くの人々はお金さえあればすべて手に入れることができ、問題も解決でき「幸福になれる」と思い込んでいるように見受ける。
特に映画の犯罪物を観るとそういう感想を抱く。

個人的にはお金で買える物品やお金で解決できる問題など「大したコト」などではないのではないかと考えている。
勿論、世間にはお金で苦しんでいる方の方が多いとは聞くし、それはそれなりに相当切実であろうことは容易に想像できる。

特に身近な例で健康。
お金を出せば臓器「移植」などは可能であろうが世の中の多くの「不治の病」や「難病」はいくらお金を積み上げて貰っても「治す」ことはできない。
病気の奥さん・・・認知症とかその他の種々の悪性の疾病について時々想像されえる。
また、たとえばその配偶者がどんなに裕福でお金があっても解決したり治したりするのは難しい。
殆んど全く不可能と思える。
それに「若さ」。
現在美容外科、美容内科、アンチエイジングなどお金をふんだんにかけソレを求めることは出来るが「老い」と「死」という生物の厳粛な宿命にキッチリと逆らえるほどではない。
意外にも莫大な富というものはそれほどにも無力であるのだ。
さらに「愛」「心」。
これもお金がある程度「助け」になるが全てではない。
元々お金で買える「愛」などそれほど価値の高いレベルではない。

尾崎紅葉の「金色夜叉」では若い貧乏学生の恋人を捨てて「金持ち」に走った女性とのやりとりが有名な物語であるが、名作フランス映画ミュージカル「シェルブールの雨傘」にもテーマとなっている。
「お金と愛」はその思惑に反比例するようにも見える。
男女の幸福度として。
つまりいくら貧しい方が豊かな「愛」を思いの外満喫しているように見える。
モノやお金や便利な生活よりもつつましくいくらか不便で貧しい生活の方に素晴らしい「愛」が充満して見えることが多々ある。
無駄に裕福な為に深い「孤独」を味わうなどということもあるようだ。

人間の幸福は「愛」という要素が必然的に存在する。
愛なしに幸福を得ることはできない。
目先の利益や富や名誉や地位は特に男性にとって女性の愛を勝ち取るのに有利ではあるが「それ」だけでは無理だ。
これは女性の美貌についても言える。
美しいから愛されるとは限らない。
男女共、何かしら「愛の念」、人格的な深み、誠実さ、清らかさ、純粋さがその内面になければ本当の愛、素晴らしい「愛の喜び」は感得できない。
そのことに強く気づかされた9月であった。

「愛についての苦しみ」を経験して知った真理は自己愛・他者愛・隣人愛・人類愛・・・それらの愛がすべて繋がっており孤独感というものが単なる幻想であることをあらためて知った。
また「孤独」は「愛が深化」すると逆に深まることもあって丁度「光と闇」のように「孤独」は「愛」を知るのに良い手がかりになるようだ。
「愛の苦しみは」は「苦」の強度として意外に高いモノで人生の自らの財や地位や名誉(それがあるとして)全て投げ出しても良い・・・というレベル。
生命さえも・・・という階層にって「真の愛」と言えるのではないか。
またそのレベルの「愛の人」はすべてを可能にするパワーを手にする・・・と今は考えている。
「苦しみ」には必ず意味があって解決の為に考え、占い、相談し頼ることは、決して悪いことではないとも知った。

ありがとうございました
M田朋玖



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