コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

[戻る]
■ 愛と尊敬2020.10. 9

この二つの言葉は心地良い人間関係にとって不可欠のものである。
女性の場合、特に男性への愛は尊敬を伴う。

男は大概の女性が大好きであるが、女は男が大好きとまではいかない。
それは子育てがあり、家庭があり、生活があり、何よりも女性特有の本能的な防御反応があって自らを守る為に家を欲し、保護してくれる人を欲し、金銭を要求する。
これは至極当然のことである。

時々男性を好む「男好き」の女性がいるが、一般のイメージと違ってこれは「悪い女」ではないことが多い。
男性にとってはとても可愛い女性である。
多少淫らでふしだらであっても男に尽くすこと、男を喜ばせることの好きな女性というのはどんな男性にとっても得難い宝石のように好ましいものである。
その上ひょっとしたら「あげまん」との尊称を与えられるかも知れない。
男を元気にするという意味で・・・。

男を性的に欲求不満にさせる女性は典型的な「さげまん」である。
男は家に帰らずイライラし、酒を飲み、ギャンブルをし、外に女をつくり、ケンカをしたり暴れたりする。
男のヒステリーは大抵女性からの愛情不足か性的欲求不満から生じるが、子だくさんで多産した女性の場合、自然にこれが起こり結果として「さげまん」になることがある。
しかしこれは先述したとおりケースバイケースで、男の方に精神的なゆとりと忍耐力や経済力があれば逆にそのような冷めた女性ですらあげまんとしてしまうチカラがある。
そもそも男の経済力というものは精神力、忍耐力、継続力、明るさ、礼儀正しさなど人間関係能力の賜物であるので、男が健康に豊かに生きてゆくのには中途半端で生半可な知識よりも上記した資質の方がはるかに大事である。
もともと高い知性を持つ男性は性欲も強く、大概忍耐力を含めて精神的余裕を持っているもので、ヒステリーが表に出るようなことは滅多にない。

もともと男は女性からの愛情が不足すると激しいヒステリー、つまり愛して欲しいが為のさまざまの不穏行動、言動をしてさらに女性に嫌われるが、これは人生全体における「男の負のサイクル」の始まりであるので、何としても精神的余裕を取り戻したいものだ。
そこで女に向かいすぎるエネルギーを趣味やスポーツや芸術に向ければ良いが、一番最適なのは仕事に向かうことである。
これはお金も女性も精神的ゆとりもすべてを得ることのできる最善最大のものと一石三鳥の妙技となりうる。

仕事をしない男は普通女性の尊敬も愛も勝ち取ることができず、一般的に人相も悪くなる。
最もこのことが明瞭に出るのがスポーツ選手で、現役引退と共に顔が瞬間的に緩んでしまって別人のようになる。
時々そうならない男性女性を見かけるがこの場合、精神的な深さ、つまり何らかの哲学とか強い自己制御のできる人々に限られるようである。

時々若い人で誰も尊敬せず、したがって礼儀も接遇も全く不得手の人がいるが、このような人は尊敬しない相手か対象が男性の場合、殆んど仕事での成功は望めない。
この尊敬しない対象が女性の場合、家庭的に問題があることが多い。

これは心理的な発達段階で両親から自然で教化されるもので、父親からは社会性と仕事、母親からは家庭性と子供とごく大雑把に捉えることができる。

これはまだ書いたことはないと思うが、筆者の場合、愛と尊敬の対象の殆んど99%がつい最近まで父親であった。
父親は大酒飲みのアルコール依存症であったが、仕事熱心で優しく愛妻家で子煩悩。とても良い父親であった。家族をこよなく愛し、子供を愛し、仕事と読書と酒を愛した。
激情家で、感激家で、素晴らしく怜悧な頭脳を持ちながら子供に説教をしたりしたことはなく、その生きざまで子供を強く教化感化した。

父親の残せるものはその生きざまがすべてで、仕事やお金や家や土地などは殆んど無意味であるらしい。
32年前に他界した父の遺産は今となっては筆者の記憶に残る「父の思い出」と父を見知った人々の父への評価だけである。

今こうしてせっせとコラムを書いている筆者にしても、4人の子供達に自分の父親がどんな人間であったかを知らしめる為だけのような気がする。
何らかの良い教化、感化になればとの思いだけのような気がする。

父を尊敬し、愛していたので仕事や社会的な事柄については我ながら恵まれていたと思う。
母親に対してはとても複雑な感情があって、尊敬と愛と嫌悪とうっとうしさとさまざまな思いが混在していて、一言で言いきれない。
一瞬だけ深い愛情めいたものを感じた時があって、それは山に山菜を採りに行った時、母親が3Mくらいの土手から転落した時に一瞬死んだらどうしようという激しい胸の痛みを感じた時であった。
この時の感情は今思い出しても「あ、この人こそ大切な人なのだ」と心から感じたものである。
幸い大したケガもなく、チョット腰の打撲だけで済んだけれど、そのおかしさと安堵と愛おしさととても不思議な感情体験をした心に残る事件であった。

それでも両親の自分への愛を一瞬でも疑ったことはなく、充分に暑苦しいくらい愛されたので本当に有難く幸せなことだと思い、今でも毎日両親への感謝を思わない日は無い。
重ね重ね有難いことである。
もち

そうして患者さんや従業員の人々であるが、実のところ正直にコクハクすると全ての人に愛と尊敬がある。
何故なら自分に無い才能や資質を持っており、自分と何らかのつながりを持っているからで、これは当然のことのように思える。
決して軽蔑というものは無い。
そういう感情を持つ人には辞めてもらうことしかないが、実際辞めてもらったこともない。

その程度には差があっても自分とご縁のあった人には必ずこの愛と尊敬を持つようにして、これは自分自身の精神的安定と同時に相手からの愛と尊敬を得る為の最良最善の方法と思えるので、毎日毎日このことを忘れないようにしたい・・・と考えている。
勿論、妻への尊敬もある。自分の子供達を立派に育て上げてくれて、こんなにありがたいことはない。世の中には子供で悩んだり、親の介護で酷く苦しんでいる方が、多いが個人的にはそういう問題を抱えたことはない。
それで尚更に社会への貢献という課題に取り組まねば、ならないと、おぼろげながら、心に決めている。

これはもちろん友人や知人についても言えることであるが、これが所謂偉い人にはチットモ感じない。
何故だろうか・・・。
政治家とか大社長とかにそれらの感情を持ちえたのは、期待を越えていないというのと自分との関係性が薄いと感じているか、もしくは本当に尊敬できる人物が少ない・・・ような気がするからであろうか。
何となく凄いなぁと思うけれども、尊敬というものと違うような気がする。

ありがとうございました
浜田朋久



濱田.comへ戻る浜田醫院(浜田医院)コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせいよくある質問youtubeハッピー講座