コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 寂寥2020. 9.30

大学を卒業し大学での病院研修を終え地元人吉に帰郷して開業医として仕事を始めたのが昭和56年6月。
この年は筆者にとって色々な意味で極めてメモリアルな年度である。
新たな人生が始まった大人の男の「人生元年」。
もっと言えば大人の「青春元年」と言えるかも知れない。
さまざまな葛藤や苦悩を抱えながらあらたな人生の「旅」のスタートとなった昭和最後から2番目の「6」のつく年であった。
当時は毎日早朝午前4:00に覚醒する。
そのまま床を離れ近くの丘公園に車を停め、気に入った「音楽を聴く」。
これは習慣であった。
朝日が昇る前の薄青の空気があたりを美しく染めている。
白々と明けてくる東の空。
それが暖色系の光になる頃に急いで帰宅して二度寝。
こんな生活がしばらくつづいたものだった。

来年で40年になる。
長いようでアッという間だ。

最近不思議なことにその昭和56年頃当時をよく思い出す。
近所のバイク屋でオートバイを即買いして免許を取りに通ったこと。
八代市の自動車学校。
クルマで一晩中走りまわったり、熊本市内にオートバイで出かけ不知の人々のうごめく深夜の雑踏をウロついたり・・・。
28歳。
今思えばまるで狂人か野生のケモノのようであった。
何をしても楽しめない。
朝晩には異様なほど激しく高い感情の波浪に襲われ、クルマの中で叫び出したこともあった。

この頃、その当時と同じような心境を味わうことが多くなった。
行動もソックリ。
ちょうど39年ぶりの心の騒乱。
何もかもを放り出して放浪したいとさえ思う。
当時と同じように。
元々「放浪癖」があるのにこの仕事(開業医)のように毎日毎日「およげ!たいやきくん」よろしく同じ診察室で患者さんと対面する・・・ということをまさか40年もつづけられるとは想像もしなかった。
途中何年かはいくらか波乱があって週休4日なんて贅沢な時代も経験したが特に楽しいとは思わなかった。
今の日常が一番「幸せな」気がする。
「平々凡々」

ところがアタマの中身は常に巨大台風なみに強風と豪雨との「渦巻く嵐」状態で1日として安穏ということがない。
1日として同じ日も無い。
それでも総計何時間・何日間「仕事」をしたか不明でもあるが感覚としてはとにかく「アッという間」。
20代と60代としては40年の開きがある。
けれども実感として当時よりみずみずしい感性感覚がさまざまな風雪を経て、幾分か鋭くなっている面もあるように思える。
勿論「鈍く」なっている部分もあるにちがいない。
どうも28歳と66歳とでの差異が判然としない。
本を読むのに老眼鏡を必要とすること、髪が白くなったことくらいか。

まず体重がその時代とほぼ同値で我が肉体のシルエットがよく似て来た。
つまり痩せこけている。
「他者の目」や「評価」とは別にしても感覚としては「若返った感じ」で夜中じゅう遊びまわれる気がする。
実際に夜の店で何時間も「屯」ろしてバカ話をしたり、クルマやバイクで夕方からあちこち走りまわったりしている。
「あてどなくさまよう」といった風だ。

子供の大学卒業で「ひと区切り」なのかも知れない。
またプライベートでは大きな波乱があり心的衝撃が大きかった。
予想していたよりもはるかに。
それに28歳時の半狂乱が重なったという態で実のところ「身の置きどころがない」ほどに苦しい。
また肉体と地位や身分などの環境とかをすべてひっくるめて「自分」というひとつの「思い込み」と「幻想」に閉じ込められて、閉所恐怖症を味わっているという感覚もある。
どちらかというと孤独と煩悶と焦燥と虚脱の入り混じった心痛ではあるけれど、その中に奇妙に優しく、懐かしく、心地良い微かな「喜び」と呼ぶべき「快」の感覚が潜んでいることにも気づかされた。
それは疼くような「胸の痛み」を伴った「哀しみ」に似た感情で、全身を包むこの境地を感得すると精神の中枢が急に楽になる。
そういう時に出遭う音楽とか映画や本は深く心に刻まれるようで良い「思い出」となって長く心をやすらがせることもある。

以前からこの数年毎に起こる「精神の発作」が不思議であったけれど特に詳しく自己分析することもせず放置していた。ところがあまりの心の煩悶に疲れ果て、自分の心を少し分析的に書き著してみた。すると、ここ数ヶ月の「心の痛み」がその苦しい時に何度か味わった「懐かしい感情」を心の中に生じさせ少しずつ自分自身を癒やしてくれていることに気づかされた。
それを心象風景として具体的に表現すると以下のような光景になる。

暗い雨の夕暮れ。
人気の全くない山あいの高原。
クルマを停めて静かに雨音を聴いている。
タバコを喫いながら・・・。

このいかにも裏寂しく荒涼として悲哀に満ちたその光景がなぜ自分の心を癒やしてくれるのか今でもよく分からない。
「寂寥」と「静寂」
この中に何らかのそれほど小さくない「快楽」があることを最近しみじみと知った。

明日10月1日に我が愛車レクサスが、3ヵ月ぶりに帰ってくる。洪水被災させてしまった愛車。それを深く「愛していた」ことにあらためて気づかされた。人間失ってみないと「愛」も「感謝」もしっかりとは味わえないのだ。寂寥は愛と同じモノに思える。光と闇のように対比しないと実感出来ない。人間の五感感覚では。

ありがとうございました
M田朋玖



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