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■ 解釈 | 2020. 8. 3 |
他人を言葉で「傷つける」ということが一般に「起こり得る」と多くの人が理解しているようである。 このことについての文章は、筆者の語りつづけた人間関係のメインテーマであり10年以上前から述べている理論である。 納得、不納得に関わらずただ単に理屈として読んでいただければ幸いである。 「セクハラ問題」「論理療法」など何度もお伝えして来た内容で繰り返しで、重複している論なので、「読み厭きた」という方もおられると思うが、中途半端な理解の方が当コラムの読者にもおられるようで、あらためて記している次第である。 「人を言葉で傷つける」ことは出来るのか。 これは基本的には「否」である。 言葉を受け取った側の「解釈」というフィルターを通さないと「傷つく」という心の現象は決して「起こらない」。 つまりその個人の「解釈」に100%準拠する。 まず視覚、聴覚障害の方、言語の違う人同士の場合単純に「言葉が通じない」ならばこれは無理である。 「言葉で人を傷つける」ことは。 それで言葉を理解し合っている同じ言語を持つ人々同士の「コミュニケーション」がとりあえず行われているという前提がまず必要になる。 ところでこの普通のコミュニケーションというのが実のところ大問題でそれぞれの知的水準とか教養のレベルがマチマチで、同じ言語を持つ人々同士、たとえば日本人同士であっても言葉の意味についての「広がり」とか「深さ」を共有していないと簡単に「スレ違い」が起こる。 これは結構難しい問題で一般的に侮蔑的とされる「バカ」とか「アホウ」とかの言葉でも、場合によっては純粋に愛情表現となったりしてややこしい。関係性の親密さが表現されている場合が多々ある。 「アンタ」とか「オマエ」とか「キサマ」とかの相手を指す親密な言葉も、喧嘩気味とも受け取れるが、ごく親しい仲間や親友同士であれば殆んど「尊称」に近い類になる。 軍歌にもある「貴様と俺とは♪♪同期の桜♪」。 非常に親密な信頼関係の深く築かれた組織では「バカヤロウ」とか「バカモン」とか「いい加減にシロ」の言葉が飛び交うことが良くあるが、これはコミュニケーション障害とは言えない。また勿論パワハラとかモラハラではない。今は違うかも知れないが、どちらかというと羨ましいくらい親密で心地良い愛に満ち溢れた「やりとり」と思える。 昭和の名経営者たちは頻繁にこういう言葉を使っていたようだ。世界のホンダの創業者、本田宗一郎などこれに加えて「拳骨」とかもあったらしい。それでも昭和の名宰相田中角栄と同様「オヤジ」と部下から慕われた。 ところが昨今「ハラスメント」(嫌がらせ)という言葉が頻繁に流通するようになったり、文壇においても「言葉狩り」などが出現したりと、人間関係のバリエーションが減って、世間が随分と狭くなった感がある。 人間の交流のあり方に対して「セクハラ」「パワハラ」「モラハラ」などの言葉が登場して、組織内におけるコミュニケーションのやり方にイチイチ文句をつける人々が出現。管理者、経営者、教育者、指導的立場にある人の言動に対して「上げ足」を取る「訴える」などの風潮が社会に蔓延してしてしまったようだ。 個人的には非常に由々しき問題と捉えているが、それほど人間が組織内でデリケートで細やかになったとも思えるし、言葉の圧力について弱くなったようにも見受ける。 知人の子供は毎日実の母親から「ボケ」「カス」「ボンクラ」「デテケ」などの暴言を日常的に浴びせられながら毎日の生活を送っているがその高校生の少年は人間関係のストレスに強い立派な「人間」「男」としてすくすくと育っている。 少なくとも精神的にひ弱な人間とは言えない。 言葉で鍛えられている(ついでにビンタ、母親の足蹴りなどの暴力)ので学校やアルバイト先での対応、コミュニケーションについて態度の極めて良い好印象の少年として周囲から評価されている。 一方で母親から優しい言葉で甘く育てられた同年の少年は極めて脆弱な神経と過敏で繊細な心の持ち主になってチョットしたイベントだけで学校にも仕事にも行けず家で引きこもってしまって学業とか就労への欲求も殆んどなく何もしないでブラブラしている状態に甘んじている。 鍛練不足。これほど人間にとって恐ろしい類はないとつくづく得心している次第だ。 これらの人々とのコミュニケーションにはかなり神経を使う。 言葉を上手に選んで慎重に会話しなければならない。これも楽しくないことはない。物凄く「考える」必要が、あって脳が喜ぶ。 先述した「ボケ」「カス」・・・の少年の方はコミュニケーションが「ア」「ウン」の呼吸で説明しなくてもこちらの言うことをよく理解し、心理状態・感情・感覚をよく共有できて言葉だけではなくすべてのやりとりが「楽」である。所謂「空気を読む」というのではなく、何かしら人間の在り方として、優れたモノを感じるのは、大概そんな経験をした人に多い。 話がそれてしまったが端的に結論を述べる。 言葉は受け取った側の「解釈が100%」で、ほんの僅かでも言葉を発した側の責任追及を始めるといきなり「ハラスメント」や「苛め」「嫌がらせ」と受け取られ人間関係がほんの一瞬で壊滅してしまう。 極めて「モッタイナイ」。 こういうことに「根を持つ」人に至っては人生の大半を「損をしたまま」お互いの精神と魂の成長のない何十年も停滞したままその人生を終えることになる。そのような人間を時々散見してひどく残念な気持ちになる。 言葉を言霊と称して「重き」を置くという考え方にも深く賛同すると同時に「言葉は単なる言葉」に過ぎないと軽々と割り切っておくことも大切かも知れない。 筆者の場合、どんな言動・事件・事態に対しても「自分の反応」を観察し「自分の解釈」を最優先しているので人の言葉で「傷つく」ことは殆んど全くない。 結果的に「相手の反応」など全く気にならないので、世界中何処に行っても安易に挨拶が出来るし、話し掛けも出来てでとても「楽」だし「便利」である。 人間というモノは世界中どこも心は一緒だ。 誰もが愛し愛されたい生き物。 またこれはひとつの論であるけれど男性は「愛する」のが好き。女性は「愛される」のが好きと大胆に分けても良い。 これらの愛情受給関係を意識していると、その男女関係は良好につづいていくそうである。 人間関係の中心に「愛」を据えておくと物事やトラブルの解決が簡単になるような気がする。全ての言葉を「愛の心」で受け取ると人生がとんでもなく「幸せ」になる。 これもひとつの単なる「解釈」の方法だ。 こういう話しをすると、「いやいや私はそんな人間が出来ていません」とおっしゃる方があるが、これは人間性とかの問題ではない。最初に述べたように、単なる「理屈」である。 個人的にはどんな人間関係であれ社会環境であれ「自分の解釈」を常に最優先させて毎日を気楽に生きている。 勿論他人の考えなんて知ったことか、という訳でもない。とりあえず配慮はする。しかし相手がどう捉えるかは、結論的に相手の「解釈」次第となる。お互いに「対等」という意味でも、矛盾はない。 ありがとうございました M田朋玖 |