コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 「恋心」についての愚感2020. 7.24

この年になってみずみずしい、そんな恋心を味わうなどということがあるとは、想像もしていなかったけれど、近頃しみじみとそれを実感している。
それは甘く、せつなく、いくらかの悲しみと微かな焦燥を伴った少年時代の初恋に似た心象で、全身が軽く浮き上がったような心地良い感覚と胸を焦がす「苦しみ」をも備えていて少し悩ましい。

ツルゲーネフの「初恋」という文学作品、昭和の大歌手・松山千春の「恋」という歌があるがいずれも残念ながら少しも心を打たない。
感性が違う。
どちらかというと嫌悪感すら感じる。
それはいいとして個人的には初恋は小学校3年。
クラスの中でも聡明でお育ちの良いお嬢様で、金属製の眼鏡をかけておられた。
細く、白く、可憐な印象であったが具体的には顔とかは全く思い出せない。
クラス替えがあった翌日の朝、一人秘かに寝床でさめざめと泣いたことを憶えている。
それほど無念だったのだ。
その彼女をシッカリと「見ていたくて」理科室の暗いカーテンの蔭から通りがかるのを待ち構えていたこともある。
まるで覗きかストーカーまがいの行動を少年時代にしていたワケで今思えば結構恥ずかしい。

ただしこのことは誰にも打ち明けたことはなく、勿論本人に告白したこともない。殆どの人生の時間を胸に秘めて来た。
特に話したり付き合ったりする欲求もなく、ただ「見ていたかった」、それで満足だったようである。
またそれほど「美しい女の子」では無かったと記憶している。
印象として清楚、上品、可憐など性的なイメージの薄い少女だった。
そういうタイプが好みだったようで今でもその傾向が少しある。
色気の「露骨」な女性にはどちらかというと軽い嫌悪感すら憶える。

和服とか軍服とかキャビンアテンダントとかのキッチリとそれらを「抑え込んだ」抑圧的なコスチュームが好きだ。
最悪はキャバクラとか風俗店などの超ミニスカート、ランジェリーなど露出の多い衣装を好まない。
そういう女性の性徴というのは出来るだけ押し隠して欲しいのだ。
このあたりは純然たる「好み」の問題で、真逆の男性も多いと思う。
けれども昔に交流のあった「ヤンキー」とか「ヤクザ」とか野蛮系の友人の多くがこの清楚系を好んでいたように思い出す。

そして恋の対象というとそんなどちらかというと性的に抑圧された状態の女子に抱きやすく、所謂ガテン系の女性、即ちタクシーとかトラックとかのドライバーや自衛隊と婦人警官などどちらかというと「ミスマッチ」の職業の女性を見ると劣情や下心を潜在させたホンモノの恋心を喚起させられやすい。
男同士のごく親密な会話では時々このような「趣味」に共感してくれる人もある。
女性にはこのことを説明しにくい。
いかにも「女」「女」しているタイプには殆んど恋心が湧かない。
それは自分の所有物(この言葉はかなり語弊があるが)になった女性についても言えることで理由のないミニスカートなどには今でも苦手で、この為かどうか所謂「若い女の子」には全く興味が湧かない。
個人的に女性の好みとして我ながら非常に複雑で「混み入っている」と感じる。
そういうわけで女性に対する「恋心」とかを滅多に抱かない。
世間にはそそられる女性がどんどん減っていってメディアの中にも街中でも殆んど全く発見できない。
それは絶滅寸前の天然記念物的な希少種の生物のレベル。
たとえば実際に絶滅した「トキ」や絶滅危惧種の「イリオモテヤマネコ」とか。
個人的にはそのような絶望的な状況の中にあった。

それがひょんなことから数年前に知友のあった女性がこの言わば絶滅危惧種的なタイプで、強烈に深い「恋に落ちて」しまってとても戸惑っている。
その女性を手に入れたいとか付き合いたいとかの欲求はあまりなくて、また若い時のように悩ましく辛い類ではなく、ごくほのかな心情で、それでいて「恋」とハッキリ自覚できる「想い」が心にしっかりと鎮座して全身を或る種の快楽ホルモンで満たしている。

「ラ・ブーム2」というフランス映画があって当時人気絶頂だったソフィー・マルソーの出世作。
この作品の主題曲「恋する瞳」を聞きながらこの自らの「恋心」に思いを馳せる時に一種の陶然とした懐かしさを胸の中に覚え、心嬉しい。
素晴らしい気分だ。
葛藤や煩悶の無い純粋な「恋心」というのは実に心地良いモノらしい・・・とあらためて実感しているワケである.

低レベルの欲求をともなわない恋心。
この「好き」という感情は健康や運気にも益するらしく久々に精通をしていない思春期の少年時代に戻ったようで心が羽根のようにフワフワと浮き上がる。

この「恋心」は中学3年生の時の初恋でない恋の対象「マリコさん」を思い出させる。
ポパイという漫画に出てくるオリーブというヒロインのよう体型で気性はアッサリとした男子のようであった。
棒切れのように細く白く近眼の為に目をすがめて、板状にペランペランにした学校カバンを小脇に抱え、九州女学院という熊本市内の名門私立女子高の、デザインのとても優れた薄青の素敵な制服を着て猫背でサッサと街中を歩く姿を今でもありありと思い出す。
結果的に殆んど自分に興味を示さず「失恋」というカタチで呆気なく終わったのに大学を卒業する26歳まで続いた。
その恋心が・・・。
不思議な体験である。

66歳のこの年でもその恋心は当時のままで、その「心」の記憶だけが心を甘くとろかせてくれる。
ありがたいことだ。
「マリコ」さん、そして小学校時代の「ミドリ」さん、ありがとう。あらためて深謝したい。
今や御年68歳、67歳というわけだ。イヤハヤ。

恋愛映画に巨乳もグラマーも出て来ない理由が最近ハッキリと理解できた。
本質として恋が性的な衝動によって生じるからと言ってそれを表に出したらイケナイのである。
武士道の言葉にもある。
「恋の至上は忍ぶ恋」と。
苦難・困難・障害・・・それらが恋の必須条件であるように。忍び方にも色々あるようだ。「傷つくならばそれは愛ではない」。そんな言葉も心理的に手伝って、この恋心をしみじみと味わい楽しんでいる。

~~~~と言うような「恋物語」を書いてみたい。橘玲という作家の「男と女はなぜわかりあえないか」。これを読んで恋心についての男女差は意外に深淵で微妙。女性という人間を逆に絶対的に「客体視」した方が、男としてはロマンチックに思える。そもそもロマンチックという言葉からして実在の女性にはあまりマッチしない。
映画「蒲田行進曲」という名作がある。時々拙コラムについてお尋ねがあるので、念のためにキッチリ申し添えて置くと、これらはある意味真実を混ぜた「フィクション」「エンターテイメント」に過ぎない。誤解の無いよう。元々「書き物」というのはそういう類だ。ただしデタラメな「歴史」より遥かに罪が無く、純粋に楽しめる。はずだ。蒲田行進曲のエンディングのように。

ありがとうございました
M田朋玖



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