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■ トラウマ | 2020. 7.10 |
6月30日は亡父の命日。 昭和53年のこの日の朝、脳出血で急逝した。 かれこれ42年の月日を経たことになる。 午後10時頃、雨の降る晩に神奈川県に在する大学病院での研修を中途で切り上げ飛行機とタクシーを乗り継いで実家に辿り着くと玄関から道路まで花輪が並んでいる。 灯明の飾られた家の玄関は想像していたより静まり返っていて、ごく限られた親族だけが喪服を着てそれぞれに立ち働いていた。 父の亡骸は座敷の真ん中に古式どおり頭を北向きにして白い布団の上でただの物体として仰向けに沈臥していた。 その日が少年から大人への大きな転換点であった・・・と今から思えば得心する。 少年時代。 それは愛と暴力と孤独の入り混じった人生で最も波乱に満ちた激しい騒乱の季節であった。 家族や家庭についての愛着と嫌悪と恐怖と混乱と・・・それらが未整理のまま脳裏に深く刻まれていて今でも自らの思考や感情、行動、ふるまいに現出していて人を驚かせてしまう。 自分の感覚での「普通」が実は「普通」ではなかった。 そのことに気づかされる。 「普通」については色々と議論があるがここではとりあえず「円満な家庭」ということにしておく。 実のところこの言葉をそれほど一般的でも普遍的でもないのだけれど・・・。 父親の暴力、それも小学校時代の記憶が全くない。 「痛み」も憶えていない。 ただ自分がそこから「逃げる」という習性を身につけてしまったようだ。 当時はそれが自分の身を守る為の唯一にして最善の策であったのだ。 父親という自分の最も愛する人、信頼する人の感情的な暴力をどうして避けられるというのか。 それ以外の方法で。 その上父はひどい「酒乱」。 毎晩のように飲みに出かけ「午前様」ということも度々。 明らかに芸妓と思しき着物姿の若い女性に両肩を支えられ、糸の切れた操り人形の態で玄関に立ったこともありその時の母の形相と言ったら不愉快・不機嫌そのもので修羅のソレであった。 そりゃそうだろう。 自分の夫が夜の街で余計な尽蕩をして深夜に「女」に抱えられて帰宅したのだから。 父は昭和のガンコオヤジそのもので、所謂「卓袱台をひっくり返す」タイプ。 その上生粋の軍国主義者。 地元の在日系の暴力団と揉めたりしていて、その事務所を通る時に往診車に石を投げられたりしたこともある。 道路工事中の屈強な土木作業の男性達とも喧嘩になって殴り合いになりそうになったところを近所の人に仲裁されたり・・・など至る所で喧嘩や揉め事を起こす手のつけられない「悪童」のような存在であった。 「火の見やぐら」に上って半鐘を鳴らしたり新装オープンの真新しい割烹で料理を部屋中にぶちまけたりとその数々の狼藉には枚挙にいとまがない。 そういう父親を持った小学生の長男息子を想像していただきたい。 ついでに母親は子供嫌いのヒステリー。 とは言っても決して両父母共に薄情な人間ではなくどちらかというと情の篤い・・・というか篤過ぎるくらいの「熱」を持った激しい性格で夫婦の喧嘩も毎日凄まじいモノであった。 その上に自分への唐突で根拠の無い暴力(これは弟や妹の証言による)。 これが「トラウマ」にならない筈がない。 危険を察知するに敏。 つまり「逃走」ですネ。 この為にイザとなったらすぐ逃げ出す極めて度胸の無い男と見なされることがある。 近々もそれに似た状況があり「その場を離れた」為にそういう判断をされた「フシ」があって自分では分かっている「つもり」であっても「癖」だからしょうがない。 子どもの時から身についた悪癖がそろそろ簡単に治るとも思えない。 ついでに中学生になり寮生活を始めるとこれまた極めて狂暴な上級生の執拗な、これまた理由のない暴力にも苦しめられた。 6年間も。 まるで地獄のような少年時代であった。 精神的に逃げ込んだのは「読書」とバスケ(部活)と勉強。 これらに無闇に熱中したものだ。 何しろ他にすることがない寮生活だし。 これらのトラウマチックな半生は前部分を「暴力」と「非行」へと駆り立て中間を色恋と仕事に彩らせ後半を逃走と「孤独志向」へと導かせているように今は思える。 何かから逃げ、何かを求めている。 その「何か」とは問われれば「愛」という言葉で表現できるかも知れない。 世の中には「愛のある暴力」というものがあるのだ。 ただ優しいだけの愛なんてない。 軍事力という国家の暴力装置も国家や国民に対する「愛」の為に不可欠であるように。 その暴力によるトラウマも今は自らを健全な平和主義者へと向かわせ、深い愛に気づかせてくれている気がする。 人生に意味のない出来事などないのだ。 トラウマの無い人生なんて気の抜けたビールのようなモノ。 つまり少しも美味しくない。 また、実際に未だかつてトラウマの無い「美人」など見たことがない。 ありがとうございました M田朋玖 |