コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 場2020. 3.15

日本人の「良識」では「人のせい」にするのは未熟なパーソナリティーの特徴で大の大人としては「恥ずかしいこと」とされているのに国際舞台では平気で人のせい「他国のせい」にすることが常態化している。
それも堂々と・・・。
いやしくも一国の国家元首の発言とは思えないが、立派な大人の教養人の発する言葉としては極めて「寂しい」。
臣下の者、配下の者は何も進言しないのであろうか。
「他者のせいにする」ことが「外交」のひとつの手段と考えることもできなくはないがハッキリ言って「見苦しい」。
また特定の「場」において「他者のせい」は問題が多い。
共通の敵を作りあげて共闘するというのは団結や同盟の常套手段ではあるが。

韓国は「恨み」の国とあったが米国のアカデミー賞を受賞した韓国映画「パラサイト 半地下の家族」が興味深い。
この受賞について同国の人は晴れがましい筈の「受賞」と同時に国家の恥部・暗部を晒された気分になった・・・とも言える内容であったようだ。

韓国社会は「血族」の社会であり結果的に自然に「階層」が出来上がる。
件の映画では下層階級の家族と上層階級の家族の対比が見事であったらしいが、それらが交じり合うことで生じた強い嫉妬心とそれに派生した「憎しみ」「うらみつらみ」など同国の国民性もまた露骨に表現されて痛々しい作品であったようだ。

社会人類学者の中根千恵によると日本社会は「タテ社会」であるらしく、この社会の特徴として人々の「絆」が「場」によって構成され「職場」や「家庭」という名称の「家族的繋がり」を生じせしめるとあった。
ナルホド。
察するところ「ヨコ」とは兄弟血縁のことであるらしい。

日本社会における家庭は血族ではなく「嫁」とか「養子」という他人(血族でない人間)の存在がその中心に据えられる。
彼ら・彼女らは「家」において姉妹兄弟などの血族よりも大きな力を持つとされる。
そのような特質を持つ共同体(家族)を形成しているとのことであった。

同様に外国の映画賞を受賞した「万引き家族」はそうした日本的な「絆」が「家」という「場」によって生じ、例え血族ではない他人の集団でも「家族」として存在できることを表現しているようだ。
ハッピーエンドではなかったらしいが見終わった後に何かしら「ほっこり」させられる一方で、件の韓国映画には暗澹とした気分にさせられたそうだ。
両国の社会、とりわけ家族についての感覚の差異を如実に物語っていると思える。
(筆者は両作品とも観ていない。全て伝聞や解説によって書いている)

個人的にはワザワザ時間を使ってキタナイ映画は観たくないので今後も観ることはないと思うが一見に値する作品ではあるようだ。
韓国は「恨みの国」であり「血族の国」であり「階層の国」であるとすると政権交代の度ごとに国家元首の血縁者の逮捕収監劇が発生する素地が社会の中に顕在しており、日本のように「場」で「絆」を醸成していく社会とは基本的に異なるようだ。
即ち、日本では、たとえある個人が国家の中枢にいても「退場」と同時に全てが終わってしまうというナラワシ。

これは中国社会も同様に「姓」に基づく血族を重視する傾向にあり中華民国、中華人民共和国以前の「清」の時代、長きにわたって少数の満州民族に支配される多数の漢民族という図式が「階層」を構築したようだ。
このことを殆んどの日本人、日本国が深く思慮せずに大陸、半島に対する政策をして来たという歴史があるのかも知れない。
その国の文化というのは常に支配領有についての一大障壁であるのだ。

個人的には職「場」には基本的に「血族」を入れないようにしている。
これは日本の文化、社会に自然に根づいている「タテ社会」即ち「場」で築かれた人間関係、絆に重きを置いてそれらの共同体意識を微妙にバランスさせて組織運営しているつもり。
少なくとも一般の診療所や病院のように配偶者や血縁者を現場に携わらせることを差し控えている。
或る意味、我ながら不思議。
開業当初、多くのビジネス書を読みながら仕事をしていて、いつの間に所謂日本的な経営法を好ましいと考えたのかも知れない。
即ち「場」を重視する手法を。

ありがとうございました
M田朋玖



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