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■ 生きる | 2019.11.19 |
黒澤明監督の同名の映画がある。 観ていない。 観ようとも思わない。 タイトルが重苦しい。 人間の「生きる」活動はしみじみと観察自省すると、とてもモノ悲しい。 毎日の食事、排泄、入浴、睡眠。 一人の人間の飲食や酸素の消費量、排泄量や空間の占拠量は半端なく多く広い。 特に富裕層の占拠領域は極めて広大で、人類の「無駄」そのものだったりする。 また狭小さにおいても劣悪さにおいても飛び抜けている環境の監獄、刑務所などは当然としても、それらの活動範囲が強く制限される住環境にある人々は誠にお気の毒だ。不快適そのもので。 ただ「貧富の格差」と片づけられないほどこの「生きる」環境についての格差には倫理道徳的な不快感を心に抱く。 「立って半畳、寝て一畳」などというが、「生きる」となったらそれでは全く足りない。 上記の「のっぴきならない」活動をスムーズに、円滑に快適にするには多くの人の「援助」がいる。それなのにそのことに深く感謝する人もまた多くはない。 当たり前の権利と思っている日本人も多い。 わが日本国では自然災害が頻発する。 その時に生じる不便と言ったら言葉に出来ないほどだ。普段の豊かな「生きる」環境との落差・・・たとえば劣悪な環境の代表の避難所生活・・・これらについて想像力を最大現駆使して慮る時、単なる同情を超えて今現在の有難い環境への感謝と同時に人間の「生きる」ことのメンドクササに考えが及ぶ。 文頭に記した4つの事(飲食・排泄・睡眠・入浴)が快適にできるだけでも素晴らしく有難いものなのだ。 それらについての感謝が足りない人のなんと多いことか。 「自分は一人で自力で生きている」と。 誠に傲岸不遜。そういうことをハッキリと述べ立てて愧じないという人ほど極端に、最大限人のお世話になっていることがあって笑えない。 さんざんお世話になって「自力」とは。驚される。 まったく自覚がない・・・などということが起こる。また殊更に不平や不満だけ感じて、考えて自らの境遇に愚痴を言うことをなさる。 一個の人間が「快適に生きている」ことにどれだけの人々が関わっているかを計算してその人数をはじき出したらおよそ3000万人になるそうである。 そういうことに考えが及ばず、「自力云々」と何の廉恥もなく言葉にする「知育不充分」な人が最近に多くななった感がある。 要するに「知識不足」がゆとり教育の最大の弊害だ。 すべからく「感謝」の無い人間は「アタマの悪い人」「知識の足りない人」と呼んでいいかも知れない。 「自分が生きて存在できる」 そのことが神の創造した大自然の恵みと多くの人々の「働き」によって支えられて実現していると実感できない人間は老若、身分、富貴の高低を問わず「大バカ」と呼んで差し支えないと個人的に考えている。 残念ながらこのタイプの大バカにこれらのカラクリ、成り立ち、構造をいくら説明しても理解できないので「何も言わない」。 一人の人間が生きていくのにはどれだけの苦労が個人と団体と組織にあるのか一度よく深考して整理しておきたいものだ。 「感謝のノート」かなんかを書くと良いかも知れない。 「生きること」「生かされていること」と感謝と喜びがうまく心の中でつながらず「死にたい」と述べる方もおられる。 生きることが感覚として「苦役」そのものであればそれも「仕方」ない。 脊髄の病気を罹患して下半身不随になったベルギー人の女性オリンピックメダリストが病気の進行を理由に「安楽死」されたが、これなど安易に「死を選ぶな」と声高に述べ立てる人々、その人の気分、感情、心に寄り添って一度考えてみたらそんな「暴言」もおさまるかも知れない。 またたとえ「五体満足」であっても人生が苦そのものの人が世の中にゴマンとおられるのだ。 ・・・というワケで安楽死を含め自死、自殺に偏狭な考えは持っていない・・・けれども周囲の人、創造者、両親など自分をはぐくみ育てた人々のことに感謝の思いを強く持てば自分の生を簡単に放棄してしまうこともないだろう。 「恩返し」「恩に報いる」心掛けもまた精神的な成長の証かも知れない。 個人の生命は自分だけのモノではないのだ。 そのことは少しだけでも脳裏に入れておきたい。 別に感謝などしなくても良いから「お母さんになんで自分を生んだの?」と親に詰め寄るのは止めよう。その「心の病」「体の病」が相当に重いとしても。 「生きる」ことに無知なのは「罪」なのかも知れない。と最近思う。生きることのお勉強なのだ。人生は。 ありがとうございました M田朋王久 |