コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 生命を燃やす2019.10. 8

時間がくればどんな人生も「終了!」となるのが世の常。
存外このことは忘れられている。
その人生の時間の中で偉大な仕事を成し遂げる素晴らしく壮大な「豊かさ」を人類に与える人もいれば、歴史に残る凶悪な犯罪をおかす人間もいる。
はたまた独裁者となって自国の国民のみならず世界中の民を曲々しき凄惨な戦争に巻き込む人間もいる。
一方で平々凡々たる小市民的な人生を人知れず送る人間や、人生に取り立てて人に誇るような夢や希望もなく全く名実共に「無為」に過ごす人もいる。
その日その日を「何となく生きている」人の方が圧倒的に多いような気がする。いいとか悪いとかの評価を抜きにして。

それでも人生の灯は着々と燃えていて、日々刻々と時間の進行と同期して、たとえば蝋燭の「蝋」のように減っていく。
逃れようのない人生の時間の厳粛な理だ。

その人間はどんな事を成したのかよりどんな人間であったのか。
即ち「doing」より「being」を重視する賢人が多い。

個人も企業も、何を「業」としているかよりHow、どんな「質」どんな「格」を持った存在であったかを問うことは両者にとっても有益であろうと思える。

筆者の両親はそれぞれ40年前、15年前に鬼籍に入って故人であるが「何を成したか」その個人にとって、我が家にとって「偉業」とも呼ぶべき実績をもたらしたのは意外にも母親の方である。
勿論、医者になって家族を持ち生涯を開業医として生きた父の人生も社会に向かっては少なからず地域社会に貢献を果たしたと言える。
色々な意味でそれぞれ個人的には「偉人」「恩人」と言ってはばからないほど人生の最初に出会った最も信頼し尊敬するべき人たちである。

そういう行為行動、言動をもってして人格を推し量ることもできるが、両親が具体的にどんな人間であったかと自問するとそれは誠実・勤勉・子煩悩と同時にある程度の教養人で、比較的良質な性格を備えた人間であったと評価している。
とりわけ患者さんやその家族、隣人への情愛の細やかさについては筆者のレベルをはるかに凌駕しており、現在でも及びもつかない。
そんな風に思える両親を持ったことを心から嬉しいと思う。
実際そうであったかどうかよりそのように「思わせてくれた」というだけでも有難い。
心の拠りどころとして・・・。

生命のバトンタッチという意味では親子関係の「妙」は人生全体に強大な影響を与えると同時に人類の進化成長発展の元となる重大な問題を含んでいる。
生命の「バトン云々」はともかく現世の自分の生命・・・をどう使ったら、どう燃やしたら良いのか大いに悩むところだ。

生命の燃焼は何をしていても起こっている。
これは先述した。
寝ていようがゲームやらパチンコやらの非生産的で自分の学習にも人の為にもならない行動中も「燃えている」
明瞭明晰な意識で何事か人類にとって、自分にとって有益なことに生命を善用する時、その生命の燃焼は素晴らしい輝きを増し周囲を明るく照らす。
たとえばオリンピックの金メダル受賞者たちを見るとすべての人が深い感動をして、中には落涙する人もいるがこの感動は何だろうと考えてみる。
それは激しい自己鍛錬・努力奮闘の末に勝ち取った紛れもない「栄えある冠」だからか。
何の努力も練習もせず、ただ天恵の才によって勝ち得た栄冠にはそれほどの感動はしない筈だ。
勝ち取った本人も感激のあまり涙する場面を見せられるにつけ人間の「生命の輝き」「燃え上がる光」というものには人々を巻き込み感動させる「何か」があるのだ。

高い目標を立てた時にその前に立ちはだかる壮絶な苦難困難にひるむことなく、あきらめることなく挑戦しつづけ結果的に「メダル」とか「成功」とかを勝ち得たとしてもそれらの為に頑張った努力、たゆまぬ鍛錬を「生命の輝き」と呼称するならどんな人でもいくらでも激しく燃え上がらせ輝かせるコトは出来るという理屈も成り立つ。

それは目の前の仕事、勉学、課題にひたむきに没入し我を忘れている時だ。

以前、伝聞であるがF1ドライバーがマシンの調整に三日三晩不眠不休で取り組み、食事はミカン2個だったという話を知ったことがある。
それでF1レーサーのカッコヨサというのは本物なのだと得心したワケである。
オートバイのレーサーにも時々そんな話を聞く。
まさに「生命がけ」で事に当たる人々の姿には強い魅力と憧心を感じる。
生命を燃やす対象がそれらの難関、困難である時に人間は感動するのであるが、これが他者、たとえば家族、隣人、地域、国家、人類となったらどんな燃え方をするのだろう。
またその輝きはいかなるものなのか・・・と想像する。

人類の平和と安全の為に生命がけでその任を負い、果たす物語が映画などによく出てくるが意外にクールに観てしまう。
それは造り物の物語と分かっていることが一因と思えるが、それよりも人間の意識として限界を越えていて実感が湧かなかいからかも知れない。

考えてみれば国家の為に活動している軍人、日本では自衛隊員や警察や消防も時には生命がけの活動をなさっておられることもあるだろうし「有事」即ち戦争にでもなればそれぞれの持ち場でそれこそ「生命がけ」の行為行動が始まるワケで、戦争映画というものが時に素晴らしく感動的であったりする由縁と思える。

敵味方の区別なく人命救助や被戦災民の救済などの活動に生命がけで身を投じたりとこれらの逸話は大戦中、個人的に知る限り日本人に最も多く逸話として書物に読み取ることができる。
トルコ船救済、米軍墜落飛行機の搭乗員援助、杉原千畝、樋口季一郎、安江仙弘、東条英機など大量のユダヤ人救済に献身した日本人など、人知れず命がけで人命救助にあたった人々は数限りない。
それらの行動を通じて得る「命懸け」は光輝く命の燃焼に見える。

人間の生命は世の為人の為、自分も含め誰かの為に行動した時はじめて輝きを持って燃やせるものなのではないだろうか。
それじゃスポーツ選手の場合は「自分の為だけじゃん」なんて叱られそうだが、これも感動的なところは他者の為になっている。

陸上競技や水泳などは世界競技の時に感動するのは国旗掲揚の時で、やはり「日の丸と君が代」には何かしら深い感動を惹き起こすチカラが宿っているように思える。
それは「国の為」というものでほかのスポーツなどではチームの為というものが追加されメンバーはお互いを抱きしめ合って涙を流す。
観戦している人も・・・。

人間の純粋で気高い動機づけの最大のモノ、即ち生命を燃やす対象の最たるモノはやはり誰かや何かの為、人の為にであって自己の利益だけではない。
少なくともそうでなければ誰も「感動」はしないはずだ。。
自分の為だけでも周囲を感動させる「命の燃焼の光」は、少なくとも何らかの苦難困難をのりのえて「人々に勇気」を与える類に限られる。そんな気がする。そうに違いない。

どうあがいても燃えて無くなる命なら、少しでも周囲を明るく照らし、暖かい「愛の灯火」を点して行きたいものだ。そう決心しさえすれば、何時でも誰でも出来ることが人生には無限にあると思える。

一方表題は間違いかも知れない。
「命は燃えている」自然に。人間のさかしらな意図で「燃やす」よりその対象に出逢う巡り遇うことの方が重要ではなかろうか。
自力と他力。どちらも大切だ。

ありがとうございました
M田朋王久



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