コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 経営2019.10. 4

いっぱしに「経営者」を気取っているワケではない。
また自分では「生涯一医者」と公言もしているし自覚もしている。
経営者と医者の二足のワラジを履いているつもりもない。
ただし100人近くの従業員の方々に働いてもらい、まがりなりにも賃金を払っている以上、コト「経営」について或る程度知っておかなければ・・・と常々考えている。
しかしながら、あらためて「経営学」を学ぼうとも思わないし優れた経営者になろうという意思もない。

以前読んだ経営者向けの雑誌に、或る地方の赤字病院を見事に再生した異能お医者が対談で語っておられたが、経営者に徹す為に医者の仕事を完全に辞めてしまったとのことであった。
当時は「そうだ、自分も医者を辞めて経営者にならなければならない」と一瞬考えたものだった。
けれども後になってよく考えるとその人物はどちらかというと不器用なタイプで、並列的に物事を処理する能力についてやや劣っており(これは悪口でも批判でもなくそういうタイプ)筆者のようにマルチに進行させていくのが好きで楽しい人間ではないと分析した。

「それぞれ」であろうと思える。
ただし、このあたりのセンスや能力についてはとにかくマチマチで、長者番付に載るくらいに非常に高い利益を得て自分は「経営の才」があると信じている経営者の方もおられて、自分も周囲の人々も経営者の鑑と「崇め奉る」みたいなことをなさるのを時々見かける。

我が一人娘は公立の大学で経営学を「おさめた」ことになっているが、今のところ経営の才覚があるようには見えない。
「経営学」と実際の現場現業における「経営」とは全く異質なものである。
計数とか管理、即ち経理「経営管理」をもって経営と考えている人もいるがこれも違う。

こう書いていると「経営者」とは一般も人々と大きく差異のある特別な存在と受け取る人も多いと思うが、筆者の考え方ではすべての人は経営のセンスを持つ必要があると考えている。
特に夫がいて子供がいる一般の家庭の主婦で「専業」か「共働き」かのいずれにしても家族・家庭の運営展開に或る種の才覚が必要で、それはやはり「経営」と呼べるものではないだろうか。
少なくとも営みつづける(経の意味)能力を要する。

種々の家事雑務、子供のしつけ・教育、財務管理、夫へのサービス、買い物、料理などこれを経営と呼ばずして何と呼ぶべきか。
マルチの才能を要する大変な「仕事」である。
それらを上手に巧みにこなす「共働きの女性」には深い尊敬の念を禁じ得ない。

その点、所謂「経営者」は「楽」である。
楽と言ったら語弊があるが営業、人事管理、財務管理、商品開発など組織が大きくなれば「人に任せる」ことができるようになるからだ。
小規模が苦しくて大規模が楽ということはないがこの相関性も一度よく調べてみたい。
勿論、業種業態によっては地獄のように苦しい場合も多い。

それでも経営が「楽」という視点では米国の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの有名な墓碑銘が良い示唆をくれる。

「己より賢き者を近づける術を知りたる者、ここに眠る」

経営者の重要な資質を一文で表現していると思える。
世間に数多おられるエセ経営者の方々には異風の言と思えるが「お金儲けの才」と「経営の才」は少し異なる。
少なくともイコールではない。
繰り返しになるが世間ではイコールと考えられている向きがあるようだ。
確かに経営者セミナーに出かけて行くと会社を「大きくした」「莫大な売り上げを上げた」「急成長させた」「利益を大きくした」人々が講演をなさる。
つまり学校時代における「成績表」の良い人を縁者にするワケである。
これは或る意味、理にかなっており経営者も紛れのない「プロ」であるから、結果(営業成績、利益についての数字)を出してナンボという側面がある。
この点ではプロスポーツ選手と同じである。
それぞれのアスリートと同様、コーチや監督については結果、即ち勝利(利益増大)が求められ、それに応えた人物をして名選手・名監督と言わしめるのである。

ところが子供を立派に育てた母親とか小さいながら従業員や取引先・顧客に深い満足と幸福を与えた経営者とかは無限数おられるのにあまり評価されない。
99%を占める中小零細な企業経営者については殆んど評価されず世間の賞賛や耳目を集めたりしない。
ここら辺の感覚は医療界における名医と良医、大病院と普通の町医者くらいの「違い」以上にあると思える。

大経営者とか名医とかでないと広く発言しても誰も話を聞いてくれない。
つまり影響力を持たないということである。
いくらか儲かって名を馳せた経営者でも人格の「お下劣」な人物もかなりの数おられるし、それほど大きくもなく儲かってもいない小規模の経営者でも立派な人や所謂人格者が結構おられる。
このあたりはかなり悩ましい現実だ。
言い換えると「良い」経営者が必ずしも儲かっているワケではなく、極めて怪し気で悪辣な経営者でも莫大な利益を上げている・・・というようなコトが起こっているのも事実である。
どちらかというとこちらの方が多いかも知れないと見ている。

経営者としての才覚が凡庸で、とり立てて素晴らしい人徳も無く「塵あくた」のような人物もおられるがこの辺りの事情についてその実情と理屈をざっとでも整理してアタマに入れておいた方が良いだろう。

名経営者と言えば現在は京セラの「稲盛和夫」さんがおられて、他にも名だたる名経営者の方々も日本中に数多くおられ、今のところは日本経済を良順に保持するのに大役を担っておられる。

渋沢栄一という近代日本の経済界の偉人とも呼称すべき人物がいるが、その著書に「論語と算盤」というのがある。
これは「人格と経理」「才と徳」と呼び変えても良いと思う。
要はバランスの問題で、いくら人格が優れてもお金儲けや必要な利益を上げる才覚が無ければ経営者として失格であろう。
このことは再三述べてきたことである。

数字にも明るくて人格、徳も優れたトップを頂点にいただくとその会社はとりえず安泰であるらしい。

稲盛和夫氏の著書を読むとこの辺のことが割ときちんとかいてある。
経営者が「利」をあげなかったら」失格であると同時に「心のあり方、考え方」について口説いほど言及してあり、それを要約すると「利他の心」であり「真・善・美」の追求であり、世の為人の為にその豊かさと幸福を願うこと、心を美しく保って高尚でありつづけると物事はすべてうまくいくという御説で、確かに「ごもっとも」であると得心するのである。

「儲かっている」会社の社長さんの中にはそんな綺麗事で経営はできないと仰せになるが、稲盛氏の信奉者で人格的に真面目な「考え方」の真面目な社長と10年間の比較では(同規模100億円企業)ただ「儲かっていた」経営者の会社は「ジリ貧」で稲盛氏の「考え方」を理念として取り入れている会社は今も成長し続けている。
ここは「勝負あったり」だ。
根本的長期的に見ればどうも経営の原理原則は世界中どこも同じではないかと考えている。
いかがであろうか

ありがとうございました
M田朋王久



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