コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 「死」について2019. 7.11

多くの人が死を恐れる。
人生に起こる不吉な出来事、その象徴で最大のモノとまでされている。
人生のゴールは死。
どんな人も着々と、確実に「そこ」に向かっている。
多くの人はそこに向かいたいと思っていないのに向かわされ、歩かされていることになる。
生きることが不吉への道程。
悲しい現実だ。

死を滝壺に例えるとイメージしやすい。
川の流れが必ず滝壺という“目的地”に落ちると仮定するとボートに乗った旅人はいくら川上に向かって漕いでも川の流れには逆らえずとうとう滝壺に落ちてしまう。
「生者全員一巻の終わり」というワケである。
これが世界中、全人類の厳粛な宿命。
例外はたった一人もいない。
一定の時間が来れば招来する「人生の必然」が「死」なのである。
それは早過ぎる時、強く愛される人の場合は大いに悲しみ、それが遅すぎる時、人は困惑する。
どちらも不幸だ。
それならばいったいどうすれば良いの?となるが、誰も未だに明快に解答をくれない。
全て従容と受け入れるしかないのか。

良寛和尚の言葉
「災難に遭った時は災難に遭うのが良いでしょう。
死ぬる時には死ぬのが良いでしょう。
これは災難を逃れる妙法なり」

要するに宿命に逆らうなということになる。
仏教、それも禅宗の僧の言いそうな言葉である。
「達観」するというのはこういう境地であるけれど悲しいかな我々混塵凡俗の一般人はそんな境地にはなれない。
「長生きして生の喜びをもっともっと味わいたい」などと煩悩満々の如き欲望を抱いて日々を生きている。
普段エラソーなことをのたまわっている人ほどこのような傾向を持っていて金銭欲、性欲、物質欲、名誉欲などありとあらゆる欲望にまみれて毎日を過ごしている。
はからずも死病を患ったりしようものなら表面上は強がっていても心の中では全世界が終わるほど嘆き悲しみまくってうろたえまくる・・・などという状態になる。
勿論そうでない方もおられるが、そのような人は平常心で快活ながら「世捨て人」のような雰囲気を醸し出しておられることが多い。

「悟人」「達人」「世捨て人」は表面上は全く区別がつかない。
思考回路としては良寛さんと同じなのかも知れない。

良寛の言葉は「人生の妙法」というならそんな達観が心境として「大安心」であろう。
仏教的な表現というのはキリスト教よりも日本人の心にフィットするように思える。
私見ではキリスト教徒の方がより死後の世界について前向きであり死の世界を天国とか地獄とか神の国とかどちらかというと神聖で神々しい世界に見立てている。
いずれにしてもこれら死にまつわる人間の思考パターンについては概して世界共通であるようだ。
或る意味不思議なことだ。
人間の考えることなど大概知れたもので、いつも底が割れていると思えるし造物主のそれとない計らいとも感じる。
宗教とか哲学とかは「死」に対峙するのにいくらか心理的な救いを与えてくれるようで、死刑囚には「教誨師」という呼称の言わば心理治療師のような方が面談し、付き添ってその心を調整するようであるが「うまくいった」という話はあまり聞かない。成功が彼等の「大往生」とはならないからで仕方がない。
死にざまを「往生際」というが、それが悪い人が死刑囚には少なからずおられるようだ。
近々では・・・と言っても10年前の巨匠クリント・イーストウッド監督の映画「チェンジリング」では子供を何人もさらって来て殺しまくった殺人鬼の男が絞首刑の刑場で「13階段」を登らされ土壇場(これこそ刑場用語)で醜い往生際を人々に晒し、あらためて「死」の重みを思い、人間として未成熟な人間ほど人を何人も殺すほどの悪事を働き自分の死を恐れる。
その哀れな姿を目の当たりにして瞬間的に慄然とさせられた。
凶悪な人間という者共への恐怖をあらためて思い起こさせられた作品であった。(実話に基づいている)
自他を同視できず結果同情心の全くない人々。
「死刑」については別項で挑戦してみたいが、自死・自殺・安楽死について一言で述べると「死」は魂的には「楽になる」方法ではないそうである。
自殺などで死ぬと逆に魂は「苦しむ」そうであるから「楽になろう」と考えてこれを実行しようと考えている人は一考したい。

「生きているのが苦しい、その上死ねない」なんてそれこそ「生き地獄」であろう。
こういう状態の人に「安楽死」という考え方がある。
「生きている状態」として地獄のような状況の方もかなりの数おられるのだ。
そういう気の毒な事を勘案しないで単純に「自殺はダメ」ですヨというノーテンキな人々にも残念な感想を抱く。
幸せで恵まれていて何の屈託も悩みもなく生きていける人からそういうありきたりの「単純論」を聞かされても殆どの人は何の共感もしないし周囲や多くの人もシラケさせるだけである。

その人間のレベルというのは「死生観」で或る程度判断できると思える。
特に「自他の死」に直面し、それと真剣に向き合ったことのない人間は幾分浅薄で薄情であるという謗りを免れない。
「死」について深考せずに「生」を語ることはできないのだ。
生と死はコインの裏表。
全ての人間は常に死を覚悟して生きるべきではないか。
人生に必ずおとずれるべき「死」というゴール。
その結末を恐れずに真の意味での心豊かな人生は望めないと思える。
勿論生や死を弄ぶような軽薄軽率な徒輩も時々おられる。
それらの人と一度キッチリと議論してみたいが恐らく深く味わいのある会話はできないと想像している。
浅慮という特徴がある筈である。
30代の頃に書物や知人友人からいただいた言葉を手帳の裏表紙の裏面に書いて貼っていたことがある。
それは「毎日を今日が最後と思って生きよ」というもので、人生の1日、今日という日はその人生・・・世界中の人・・・と同様に二度とない一日であるのだ。
今日、令和元年7月4日、午前9時18分〇〇秒。
刻々と過ぎて行く人生のこの貴重な時間をどんな心構えで過ごすべきか?
この問いかけにひとつの解答を出すとすれば「真剣勝負をしている剣客か剣豪」のような気分で生きる。
その時全ての出逢いは「一期一会」となり毎日顔を突き合わせている配偶者や仕事仲間、友人、たまたま出会った未知の人に対面する時、愛と感謝と「めぐり逢いの奇跡」を深く感じながら応接になるにちがいない。
「死」について思う時に70数年前行われた旧日本軍の特攻作戦で散華していった若者たちのことに思いを馳せる。
そういう時に思うのだ。
彼らの残した言葉の数々を・・・そして気づくのだ。
それらがすべて誰かや何かへの恨みつらみなど寸毛もなく殆んどが国や家族や愛する人々の安寧と平和と愛と感謝で満たされていることに。

「国の為に」という言葉に嫌悪感を抱く人々がいるそうであるが、国とは究極的には母であり、父であり、大地であり、自分を育み育ててきた恩地であり、人なのである。
それに一身を奉じることは或る種の崇高な喜びがあっていつも深い感銘を憶え、或る種の清々しさ、潔さにあふれていても何の矛盾も齟齬も感じない。
そのような「死」は豊かな「生」と同質なのではないか。
そんな死を迎えたいと時々思うことがある。
個人的には「死を思う」のは「死病」を患ったのではないかとひどく心配するときである。
強い恐れをもって「死」を考える一面と覚悟して開き直って「死」と死後のことをボンヤリと思ったりする。
そうして上記が否定された時に強く味わうのは「生の喜び」である。
この時には「人に与える」「仕事をすること」が深い喜びであったことに気づかされる。

死に直面した時のように「真剣に生きる」というのはとても良きこと、素晴らしきことで「何となくボンヤリ」と生きているよりはるかに心愉しい。

今していることがとても素晴らしいことであるとあらためて感じられる。
もしそう思えないなら真剣に「死」を思ったこともなく「生」を過ごしているとも言えない。
そういう印象を持たされ人が多い。
「死」には何らかの意味や価値を持たせたいと個人的には考えている。瞬間的にでも、報国とか奉世とかの言葉で表現される犠牲的な生。そうしてその結果としての死。

ありがとうございました
M田朋玖



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