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■ 「代償」 | 2019. 7. 4 |
伊岡瞬の小説「代償」を読んだ。 久々の読書だ。 この本を読み逃した「代償」は大きいの「帯」につられて思わず買ってしまった。 生来的に邪悪な人間というものがこの世には少数ながらいるようだ。 どこにでもいそうな心から悪辣な母と息子に主人公の人生が翻弄される物語。中途まで読んでその晩はめずらしく不眠になってしまった。 午前3時頃まで何かしら不吉なものが心の底に澱んで「気持ちが落ち着かない」。胸がザワツク。 件の小説の主人公とよく同調している心を感じる。 そんな邪悪な人々に以前少しだけ接触したことがあるからだ。 裁判とか調査とか警察とかを絡めても捕まえ切れなかった「悪人」を思い出させる。 自分の欲求満足やサディスティックな喜びを得る為に人を騙し、そそのかし、おとしめ、操り、悪意を持って苦しめる人間がいるのだ・・・ということを思い出した。 毎日、殆んど善良な人々に囲まれて生きているので、人を深く疑うことをせず、多少の悪は大目に見るという応接スタイル。まるでこの世に「悪」など存在しないかの如き素朴さを備えた人間。元々「騙されやすい」質と思える。しかしこれまでの実体験を少し分析的に振り返ると「そうではなくて」自らの心の底に潜む邪悪さ・・・「利欲の為には手段を選ばない」とか「どうでも良い見栄や虚栄心など・・・」とかが少なからずあって、それに他人の巧言を同調させてしまい、今考えてみれば、大物の詐欺師達の大掛かりで巧妙な手口にまんまとひっかかってしまったのだ・・・と思う。油断していた。 件の小説の中の主人公もそれらの邪な人間達に対して「吐き気をもよおした」「めまい」を感じたりしながらも鍛錬されても悪に染まらずに立派な大人になって、司法という立場から真正面に悪人と戦う物語。 一気に読了してしまった。傑作と言える作品と個人的には思う。 「悪と善を併せ持つのが人間」という見方と生来的に悪人と善人とか明瞭明確に分離しているのではないかという考え方と両面あるように思える。 所謂「性善説」と「性悪説」。勿論後者を採る者共は、大概悪人と見ている。 典型的に悪人とされている「サイコパス」が一般人に混じって存在するようで、その数は思ったより多い気がする。 経験上も犯罪事件のドキュメントなどを読んだり聞いたりしてもそのことを時々感じさせられる。 元々の善人が、魔が差したように時々過ちを犯す一方でどうしようもない、サイコパスを含めた根っからの「悪人」としか呼びようのない人間がいてとんでもない悪事を繰り返し働く。 中でも特に狡猾な連中は警察沙汰にもならず正常人、一般人と善良な人々と同じように暮らしているらしい。 それらの人々が時々重大な連続殺人とか保険金殺人とか大量殺人などをひき起した為に法律まで変更されることがあり、一般庶民として迷惑千万な存在であることに違いがない。 一部の不届き者によって迷惑を被る多くの善良な人々・・・というひとつの社会の定型的な構図は世界的にも歴史的にも何度も見られている。 その人物が帝王とか王とかの民の支配層に現出した場合、その時代の人間の不運としか言いようがない。 歴史的には数々の悪人が人類の発展にも与してきた・・・勿論その混乱にも寄して来たように。 人間が善悪の両面をその心に具有していて、それが強弱に現出したり消退したりするという説もあるが、全身全霊マルゴト「悪」という人物がいないワケではなさそうだ。 人を貶める為の嘘をつき、為に人が苦しむのを喜ぶというようなオソロシイ人物。 子供の時から動物やその他の生き物を殺して喜ぶというようなタイプは「悪」の予兆と潜在力を持った人間と考えて良いらしい。 筆者の場合、全く善弱というレベル。ゴキブリやハエ、蚊まで殺せない。小学校の生物の実験「カエルの解剖」とか昆虫採集でさえ嫌で仕方がなかった。 掴まえて来た魚や蛙を使用不可になった風呂場で飼ったりしていた。 不思議なことに親はそういう自分を叱ったりはしなかった。 子供らしい「優しい性格」として安心したようである。 幼児期から高齢者や酔っ払いが道路をヨタヨタ歩いていると「オジちゃん、危ないよ」とか言って用心を喚起していたそうだ。 親の言であるが・・・。 両親はそのような気質・性格をどちらかというと好もしく思ったようである。 どこかしら邪悪で剣呑で不気味なタイプがいるがそういう少年ではなく、極めて普通のどちらかというと臆病で「すぐに泣く」気の弱い性格で、ついでによく発熱や発疹をきたす虚弱な身体の持ち主であったように自覚もし、周囲の人から伝聞している。 現在でもその傾向に目立った変化は見られない。 この年齢に応分に物事に鈍感になり、いくらか図々しく厚顔無恥になった程度だ。 人間というものは変わらないモノである。 少年時代に小狡くて卑しい目をしていた男は今でもそういう目つきをしているが、いっぱしの儲かっている会社の社長さんだったりする。 一方、「お坊ちゃま」。少年時代に何の屈託も持たなかった極めて「お育ち」の良い男は認知症のように身なりを構わず、世間体も見栄えも忘れて単純に「お金」を求めて財産を売ったり訴訟事に明け暮れたりしている。 若い時に天才的に頭脳明晰な男がアル中で早世したり、これまた青年期に溌剌と元気だった男が60前に突然死したりどうも人間の、特に男は人生の前半と後半で、何らかの「代償」を払わせられるような気がする。当に「振り子」の原理そのもののようだ。テキト−に「負」とか「マイナス」を背負って置く方が安全な気がする。 話しを戻す。 単純に比較すると「甘やかされたお坊ちゃま」というのは後半生、特に社会的に不利な状況にあり、いくらか「悪」を持ち小賢しく上手に立ち回った卑しい育ちの男の方がひとかどの社長になったりしている。少年時代の悪人が必ずしも大人の悪人になるとは言えずいかにも善良そうな育ちの良いお坊ちゃま然とした友人の男の零落ぶりには目を覆うばかりだったりする。 全く鍛錬されなかった「男」というのは強烈に「不運」な男といって良いかも知れない。 女性は少し異なる様相を呈するが、詳細不明。 筆者も瞬間的に悪に染まり、シンナーやボンドを吸引し喫煙したり飲酒をしたりバイクの無免許運転やら典型的な非行少年であったけれど、どうも根は「善」であったようで、親の善導のお陰か大学入学時より徐々に「まともな人間」にならされて「父親の死」を境に男らしい自立した立派な人間になるべくそれなりの努力をするようになった。 そのうちに「離婚」という痛手をこうむり、さらに人格が錬磨されたようで、心労・苦労というものが己を鍛えてくれた好例を自分の半生に見ることができるが人の話を聞くと自分のような経緯を辿った人間は意外に少ないようだ。 概ね順調。 奇跡としか言いようがない。 ヤクザだろうと犯罪者や前科者であろうと「根が善」という人間か、どこを切っても「根っからの悪人」という人間に分けられるようで、これは天分・天性としか言いようがないが伊岡瞬の小説には後者の典型的な人間を数人登場させて世の中に警鐘を鳴らしている。 「用心しなさい」と・・・。 人生はプラスとマイナスが0になるようにセットされていて「代償」を要するような悪事は必ず暴かれる宿命にあるような気がする。 敢えてマイナスをつくる。わざと「損」をするって意外に大事な事かもしれない。それこそ「代償」を払わせられないために。 ありがとうございました M田朋玖 |