コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 紫陽花の頃に2019. 6.26

今年の6月は晴天の日が多く、新しいオートバイを数台購入した者からすると有難い天候であった。
今週末(下旬)よりいよいよ本格的に入梅する模様である。
連日連夜のバイク三昧もしばらくおあずけか・・・。
ご無沙汰のクルマとバスケで自由時間を埋めようと考えている。
(勉強とかしないんかい。ハイ。)
クルマも相当に楽しいものだ。
それも雨天に乗るクルマはバイクとは異なる喜び、楽しみがあって心嬉しい。
フロントウィンドウのワイパーが雨を捌くのを眺めながら雨中の田舎道や街路をゆったりとクルマを流すのもそれなりにテンションを上げてくれる。
子どもの頃の夢なんてこの程度のモノだったことにあらためて気づかされる。
分不相応に大きくて立派な仕事を親から貰いこの幸福感を享受できているのも「運が良かった」としか言いようがない。

自分の息子や「人」のように激しい努力をした記憶もない。
ただ言われたとおりの勉強はした。
寮だったし。
クルマやバイクに耽溺している時、体感的には15歳から18歳だ。
40年も昔に逆戻りしたような錯覚をおぼえる。
バスケの時の息切れや心拍数の上昇ですら心地良いと感じる。
夜、軽バイクを駆る時に予定より10kgも少なくなって63s。その体重が少年時代を体感させる。

長めの白髪がそうさせるのかそれが風になびく感覚があって、それらすべての身体感覚があの少年の頃の大人への期待と不安を思い出させる。


雨に濡れていた紫陽花は少し乾いて汚れて精彩が幾分落ちて見える。
道路脇の門前のそれらが今は花よと咲き誇っているのを前記した「乗り物」を操作しながらチラチラと眺めていると色々なことを思い出す。

中学生の頃、初めて父親の往診に付き合った。
素面の時にはいかにも優し気な微笑みを目元にたたえたその暖かな人柄を周囲に思い切り表出していた。
大柄な父がゆったりとした歩き方で患家の門や玄関をくぐる後ろ姿には或る種の憂いが漂っていて、それが何を意味するのか理解できなかった。
今はそれが少し分かるような気がする。
それは職業上のモノ、父親としてのモノ、男としてのモノ、さまざまな悲しみがその全身に詰まっていたに違いない。

人生は一人では抱えきれないほどの悲しみや苦しみを背負いながら過ごして行くものであるらしい。
男の背中には確かに「語りモノ」が多いようだ。

その往診「随行」の時に殆んど患家の庭先に紫陽花がそれぞれの彩りで咲いていた。
その時が昭和43年の6月と推定している。
15歳の筆者が患家の屋敷の高い縁側に座り、足をブラブラさせながら水田や緑山を眺めている間に父が診察を済ませ手を洗いながら家人と何か方言で話している。
出された焼酎を1/4ほど一気に飲み干し、慣れた手つきで残りを庭に放った。
家の人達も看護婦さんも運転手さんも誰も何も言わない。
まるで禊かお祓いの儀式のようであったようだ。
「いつもの行動」

紫陽花の頃のそれらの懐かしい思い出がいつも自分の心を温めてくれる。
父親を尊敬していたし、深く愛してもいた。
酒を飲んでの数々の狼藉も町中の大立ち回りも人々の話材にはなっても所謂「悪い噂」ではなかったようだ。
愛妻家で、子煩悩で、仕事人間で、大酒飲みで・・・。
それらはいつも親しみを込めた「ハマダセンセイ」の呼称に似合っており、自分自身とは違った、独特の存在感であったようだ。
その父の享年50歳から15年も長生きしてしまった。
仕事人間以外に似たところはあまり無い。

海外旅行もゴルフもせず、毎日近所のうどん屋で焼酎をひっかけ、飲み屋を数件まわって「竹林」という名の割烹により、或いはM先生の自宅を訪問し母親の迎えを待つというのが定番で、帰って来ても母に風呂を入れろ、腰を揉めなどと「甘えまくり」時にはそれらの「奉仕作業」で明け方まで母を寝かせなかったそうだ。

結果的に子供ら(筆者と弟)の登校には起きて来ず、自分達で玉子ごはんを口の中にかき込んで学校に行った。
身なりを構わない弟はボロボロの半ズボンと汚れたTシャツを平気で着て行き、友人達にからかわれたりしていた。
自分は父親の整髪料で髪を撫でつけ、お気に入りのセーターと黒ズボンを毎日着て学校に行った。

小学校は市内の中心部に在する「鳥が丘」という小山の頂上にあって、子供達は坂道や階段を踏んで登校した。
登下校時に自動車の通れる広い坂道を昇降する時に市内の東側が一望できた。
我らが浜田医院もその視界の下側に近望できた。
その道にも勿論、紫陽花がところどころに咲いている。

ありがとうございました
M田朋玖



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