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■ 自分 | 2019. 6. 4 |
昔、伊丹十三という映画監督がいて「タンポポ」「お葬式」「マルサの女」などのヒット作品を世に出して、晩年まで活躍して突如として自宅のマンションから飛び降り自殺を完遂して他界した。 平成9年12月20日、享年64歳。 この年まわりだと当時、巷間囁かれていた他殺設もあながちデタラメとは言い切れない。 自殺の理由が心理的に薄弱であるし、そういうタイプではないからである。 64歳なら映画監督としてはまさしく脂の乗り切った「これから」の年齢で、環境としても身分としても「最良の時」だったから個人的には昔から腑に落ちない事件の最大のひとつだ。 暴力団やその筋とのトラブルなど映画作品の題材として極めて「ヤバい」内容の制作者であらせられたのだから・・・。 マフィア映画ではないけれど「人を殺す」のはそれほど「作業」として難しいことではない。 「力のある」人間が集まって或る人物について秘密裏に話し合ったら「人殺しの相談」になるそうである。 伝聞であるが・・・。 その伊丹十三氏の著書に「自分」というのがあった。 内容はかなり哲学的な類で、我が蔵書に埋まっている筈であるが探すのが面倒でそのままにしている。 「自分」という言葉は「自然を分けた存在」或いは「自然から分かれた存在」と考えている。 反対語は世間常識的に考えられているような「他人」ではなく「自然」ではないかと思える。 「自」という字は目にチョンと印がついている。 即ち目を道具化するように少しだけ飾って成り立っている。 自分も自然も目があってこそ自覚される。 勿論、残念ながら盲目の人にはそれらが見えない。 それこそ「心の目」では見れるかも知れないが、目という感覚器官は脳の神経が鋭く敏く突出した細胞で、極めて繊細な構造をしている。 これは他の臓器も同じであるが脳との近接度と直結度において他を圧倒している。 それで日中よく目をつぶると(瞑目すると)ストレスが相当に軽減する。 瞑想して深呼吸をしてカラダの力を抜くということを意識して習慣づけるとさまざまな苦痛から自分の心を解放することができる。 逆に見るとそれほど視覚的情報というモノは聴覚と同様に脳に対するインパクトが強烈で継続的であるということになる。 「目」のハナシはここで終わるとして自分について自分はそれほど分かっていない。 心理学で「ジョハリの窓」というのがあって自分を4つに分解して説明している。 即ち、 @自分と他者の知っている「自分」 A自分は知っているが他人は知らない「自分」 B自分は知らないが他人の知っている「自分」 C自分も他者も知らない「自分」 上記したようにBとCは自分にとって未知の「自分」である。 特にCについてはかなり情報量的に莫大に巨きいのに、未だに殆ど解明できていないらしい。 そういう自分と対面した時「自分のことは自分が一番分かっている」と考えている。 多分に上から目線的な物言いで恐縮だが無知で愚昧な人々に「覚醒」を突きつけられる事実。 それは自分の目を「自分」が直視できるか。 また自分の後ろ姿を「直視」できるか、或いは自分をまるで刑務官か介護士か看護人のように常時「客観的に冷静」に「見守る」ことができるか。 これらの問いかけに即答するとすれば「否」となる。 解答はあらためて述べるまでもないだろう。 自分を単純に、内観的に「見る」ができるかというとこれも或る程度の訓練、それも激しい修行なみの訓練をしないと本当の内観はできないらしい。 心理療法で「内観法」という言葉があるが、だからと言ってキチンと内面(心)を観れるかというとそういうことはできない。 殆んど全く「五里霧中」というのが普通の人間の心の実相である。 また、それほどのレベルでもとりあえず生きてはいけるし何も困らないので事が無ければ全く問題はないけれど「自分とは何ぞや」とか「自分が見えなくなった」などの訴えをあらためて聴いた時にそれについて即答することはできない。 何故ならそういう問いへの明答など土台無理なハナシだから。 元々これほど複雑怪奇な「自分」というものを簡単に「分かる」ことはできないのだ。 字面だけ見ると『自然から「分」かたれた「印のついた目」』と考えると或る程度悟りめいた「自分」がほの見えてくる。 即ち神(自然)と人間(自分)の関係性だ。 神(大自然・宇宙)を全ての造物主(クリエイターと呼称すると、これは多分にキリスト教的言葉であるが)神自身を見る「目」を人間に与えて神自身を確認する道具・・・即ち人間の使う「鏡」のような存在として人間を創造(クリエイト)したのではないだろうか・・・という仮説がある。 これは他書にも記してあるひとつの「論」で「神」を客体視できる「人間」を創造しないと自らの存在を誰も認知できない。 これが「人間の創造」の神の動機ではないかというのである。 確かに「認知」できないものは存在しないに等しい。 忘れられたポケットの中の100万円は無価値なのである。 ナカナカ興味深い論だ。 事実、人間以外の生物は神を認識できない。 人間は科学技術の進歩を待たずにその造物主(神)への強い畏敬と興味関心を抱き、大昔から霊界を信じていた。 そうした長い歴史の中で今現実に人間は宇宙を知り、物質を知り、自らの肉体を知って来た・・・がしかし、心の内まではいまだに解明できず「自分」と「自然」の関係性ですら前記した主体(神・自然)と客体(自分)に分けた程度にとどまっている。 主体と客体は「自」で繋がっている。「目」でつながっている。 見る者と見られる者との関係性においても自分というものが高遠で深い存在だということがおぼろげながら分かるような気がする。 こういうことに考えが及ばず、霊も神も単なる「オカルト」としても信じないアタマの固い科学者などボンクラの呼称に恥じないほど程度が低いということになりはしないか。 自分の趣味や生い立ち、生まれ、収入、持ち物、学歴、経歴、経験、容姿などの履歴書のような事柄などを持ってして自分の全てを考えている「自分探し」の途上にあるとしている青年・中年・老年など先述した自分についての哲学的洗練を経て、別個に語れるくらいでないと真の教養人とは言えないと思う。 特に自慢話を得意気に披露し「自分を語る」人々については深い嘆息しか出ない。 余程自分の無い無我の人、忘我の人、愚鈍な人物の方が認知症を含め素敵に思える。 自然と自分。いずれも神の創造によるとされている。それらと人工物と比較したとき、前者の方に強く心惹かれる。それらを十分に楽しんで生きて行ける人間に生まれて心から幸せと、最近しみじみ思う。 近々他界した世界的な物理学者のホーキング博士のように人類の未来について悲観的に述べる人もいるが、元々全ては「無」で何にも無かったんだから、人類がどうなろうと役目が終わったら、「解散」して「消滅」するしか無いだろう。 役目とはこの文脈から述べると神を「客体視」する存在としての「主体」即ち「自分」即ち「人類」そのもの。 追記 雀鬼、桜井章一によれば、負けの原因は殆ど「自滅」であるそうな。人類の未来は今のところその流れで、誰も止められそうにない。そもそも人間どもが神に勝てるわけがない。 ありがとうございました M田朋玖 |