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■ 軽楽 | 2019. 6. 1 |
軽薄でも良かったのであるけれど語感が悪い。 薄っぺらい人間というのは魅力的とは言えない。それで敢えて 軽楽という言葉を使ってみた。 全てに渡って軽く楽しいというのはとても良いことではないかと考えている。 特に「気」 気軽、気楽。 逆の言葉として「気が重い」「気が苦しい」などまるでうつ状態かビョーキではないか。 元気という言葉も良い。 元の気、即ち人間の気の「元」は健康な気なのである。 たとえば生まれたての赤ちゃん。 特殊な場合を除いて元気そのものだ。 無邪気で素直で恐れを知らず、母親の無条件の愛の中で元の気を周囲に思い切りよく発散発信している。 成長の段階で被養育経験、さまざまなマイナス体験を通じて無邪気が邪気になり素直が頑固になり・・・身も心もどんどん固くなっていく。 老化とは「柔」が「剛」、「軟」が「固」、「素」が「奇」、「単」が「複」、「湿」が「乾」になって行く過程と言って良い。 心身共に。 そこで老化を少しでも遅くさせ若々しくしているには「柔」「軟」「湿」「素」になることを保つ必要がある。 それらの心身の状態を意識して求めることをすれば良いかも知れない。 たとえば心においては、 柔軟な思考、考え方、即ち柔らかいアタマ、潤いのある心(情感豊か)、素直な性格などである。 「重厚」という言葉がある。 これを「軽楽」と無理矢理に対比させてみた。 個人的には自他共に重厚という雰囲気を好まない、どこかしら重々しい人物や建物や組織があって故意か無故意か演出かいずれにしても重苦しいムードを持ったそれらは、宇宙にあるブラックホールのように周囲のエネルギーを吸い取ってゆく・・・ように思える。 明るく、軽く、楽しそう・・・上機嫌という状態は運気を高めるらしく「成功」もしやすいそうだ。 「神様は上機嫌がお好き」 憶えておきたいフレーズだ。 逆に言うと不機嫌はお好きではないということになる。 そりゃそうだろう。 折角自分(神様)が与えた生命を楽しく味わっていないワケだから。 プレゼントを上げたのに御礼も言われずさらに不機嫌になるなんて人間同士のやりとりでも不愉快そのものに違いない。 「ありがとうございます」と言って有難く頂戴してそれを嬉しがる、喜ぶ、楽しむ・・・というのがスジだろう。 理由の無い不機嫌は不徳なのではないかと考えている。 何しろ人を不愉快にし、周囲の空気を汚す。 ここは多少「軽薄」と言われようと、ノーテンキと言われようと上機嫌に「軽楽」に生きたいものだ。 どこかに紙に書いて貼っておくと良いかも知れない。 因みにカワサキのバイクは重くてデカい。 なにしろ川崎重工というくらいで・・・。 それでホンダに乗り換えてみると、その軽さが物足りない。 パワー不足(排気量が半分以下になった)、コンパクト、乗り易いなど重厚から軽楽に大きく切り替わった。 結果楽しい。 今後再びカワサキに乗ることがあるのだろうか。 勿論カワサキの良さも明瞭に分かっているつもりだ。 その武骨さ、重々しさ、操作系のメカニカルな手応えなど「魅力」は充分にある。 敢えてカワサキに乗る人々の気持ちも痛いほどよく理解できる。 しかし65歳という年齢が、25sの体重減少がそれ(カワサキのバイク)にまたがるのをためらわせている。 そう言えば高齢者のカワサキ乗りはあまり見かけない。 それはホンダだったりハーレーダヴィッドソンだったりする。 それらは何と言っても楽チンだし楽しいのだ。 文句なしに。 オートバイに欲張って乗る年齢は過ぎてしまったのかもしれない。 ただしホンダかスズキ、ヤマハの排気量1000cc以上のリッターバイク、SS(スーパースポーツ)には再挑戦すると思う。 そのパワーと軽さを求めて。 人生においての軽楽。 どんな事柄にも応用できそうだ。 世の中の情報はすべてどこか重苦しい。「呑気」とか「のどか」とかを羨望し「軽重浮薄」とか「無責任」とかに簡単に怒り、物事の「軽い扱い」を憎み、明るくしているのを蔑む、などの「気」がありはしないかと時々心配する。 人類の歴史も個人の人生も近望すれば悲劇、遠望すれば喜劇、どちらも終わってみれば、はかなく不確かで、さしたる結実のない三文芝居に過ぎないのだ。 世界的な名誉や勲章ですら、旅芸人の貰う投げ銭と同等の価値しか持たない。何しろ喜劇なんだから。人間の物語の本質は。それをことさらに「重く」する必要もあるまい。 ありがとうございました M田朋玖 |