コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 癒し2019. 4.20

以前、熊本市内に「癒やしの杜クリニック」なる呼称の有床診療所を営んでいたことがある。
元々「医」という言葉は癒やしの意味があるらしい。
同義として「医やす」という表現もあるようだ。

心理的に癒すとなると「自他をゆるす」ことで得られるらしい。しかし本当の「ゆるし」は意外に難しい。
「私は〇〇をゆるします」
主として人に対して毎晩、寝る前にその人物の顔をイメージしながら行うと強力な心の「癒し」がおとずれるとのことだ。
「私は私をゆるします」という言葉には癒しのチカラが強力に宿っているらしい。
これを「言えない」「口に出せない」人が時々おられるが、これらの人は一般に心の病が相当に重いとのことだ。
心理セミナーかなんかでこれを口に出すとか何とか口に出せた人は、感涙と共に心が深く癒される。

多くの人は自分を「ゆるせない」ことで癒されていない。「苦しんでいる」と考えられる。

2.26事件で実父(陸軍大将・教育総監の渡辺錠太郎)を目の前で殺害された渡辺和子氏は反乱軍の青年将校らを「生涯ゆるせなかった」語っておられる。
自らが奉じるキリスト教でも「汝の敵を愛せよ」という言葉もあるのに。「愛する」「ゆるす」は殆んど同義なので宗教的にどんな素晴らしい人物であってもこの一点においては、未成熟であったと言わざるを得ない。御自身もそのことを正直に述べておられたようだ。
「自分の父親を殺した人間をゆるす」なんてあり得ないと考えている人が殆んどと思うが、あらためてこの「ゆるす」ということについて考えてみたい。

「ゆるす」は許す、赦すという語感と同様に「ゆるめる」「弛緩する」という意味もあって緊張が解けて楽になった状態も表現している。
精神や肉体を楽にする最良最善の方法が「ゆるす」という精神的作業であることにも考えが至る。

そのまま、ありのままでこの世界を、人を、そのあり方を、「ゆるす」ことのできない人々が、数多おられて世界は争い事で満ち満ちている。
人間が精神的に少しも成熟しておらずいかにも「愚か」でることの「証」である。

「ゆるせない」という精神状態を、いくらか誇らしげに語っている人もおられる。その人物の精神的なレベルが、「それほどでもない」と、ある程度推し量ることが出来る。
また「ゆるせない」という動機に基づいて復讐を代理的に行う「業」を請け負ってその対象人物を殺すという物語が、かつて日本の長寿番組「必殺仕掛人」という時代劇のドラマシリーズにあった。

日本人の古典である「忠臣蔵」の物語も「ゆるせない」敵をみんなで協力して計画的に暗殺しておいて、人々から英雄として崇められ人気を博したというのであるから日本人の思考回路は、考えてみれば結構オソロシイ。
進駐軍(GHQ)がその上演や上映を禁じたこともこの点で理にかなっている。

一方でこれらの復讐心は見方を変えるとそれぞれ「父親への愛」の深さ、「主君への愛」(忠義心)の表現とも考えられるので、人々は或る種の感動を覚えたり共感したりすると考えられる。

しかしこの項では「復讐」が本題ではないので、こと「癒し」に限定すればやはり「ゆるす」、それも心から「ゆるす」ことをしないとその「癒し」が起こらないことは、先ずキチッとお伝えしておきたい。

この精神的作業は全ての事柄に当てはめられるので、心の中で「ゆるし」が起こると心が晴れやかになり楽になり、軽くなるので誰でも明瞭に自覚できる。

多くの人の心の中に「癒し」も「ゆるし」も殆んど生じていないことは、メディアや巷間見かける人々の表情を見れば一目瞭然で、人間の存在は殆んど常態的に自罰他罰心、敵愾心と復讐心と嫉妬心、恨みつらみなどが、心の中に渦巻いているように見受けられて考えてみれば、かなり悲惨な状態と言える。

愛情深い母親に抱かれた生まれたての赤ちゃんのような、おだやかで無邪気で「愛そのもの」のように癒やされて存在していたいと時々思う。

「私は私をゆるします」

これが一種の呪文のように自らと周囲の「癒し」を得る定番的な言葉なのだ。多分そうだ。そうにちがいない。

ありがとうございました
M田朋玖



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