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■ 置かれた場所で・・・ | 2019. 3. 8 |
久しぶりに朝霧が立った。 気温と湿度、川と盆地の地形の自然の采配で生じる元々情趣豊かな城下町・温泉町を乳白色の極少の水粒がなまめかしく包み込む。 朝の霧はその日が晴天の徴だ。 ただの曇天との差異は同じ「灰色」でも白が混じり気圧も高めで気分も落ち込みにくい。 大学の後輩で一緒にバスケをしていた名古屋大学の教授S先生の言では気圧と頭痛を含め「気象病」と呼ぶべき分野の研究をされておられるが、気候天候の人間の心身に与える影響は決して小さくはないとのことだ。 このことは医学とは別に世界地図を見れば一目瞭然で地域に温暖の差異、高低差のとおりに人間が素晴らしく良く適合して住していることが分かる。 灼熱地獄の赤道直下、たとえばインド・アフリカ大陸・オセアニア・南太平洋の地域では肌の色の濃く鼻孔が横広の人が分布しており北極圏に近い地域には肌の色の白い鼻梁の縦長の人が住んでいる。 これらは自然に人々に受け入れられているがそれぞれの言語の違いと同様に極めて奇異に感じる。 南北に長い日本国の場合でも北の北海道と南の沖縄では住んでいる人々の骨格や肌の色合い、体毛などに差がある。 性格・気質についても冬、雪に閉ざされる東北人と年中暖かい沖縄(最低でも10℃前後)では当然違ってくる。 想像どおり東北人は気質として忍耐強さと粘り強さがあり、一方で沖縄人の場合はあきらめの早さや意見がコロコロ変わりやすくまとまりにくいという特徴があるように思える。 筆者の居住する熊本県でも県北と県央と県南、海沿いの県西では気質に差がある。 明治維新の頃の地図を見るとそれぞれに「藩」が存在し文化圏が異なっていたようである。 熊本市、菊池市を中心とした県北の文化は九州全土を支配した菊池一族の末裔の為かいくらか荒々しい性格と理由の無いプライドの高さから議論好き、喧嘩好きの気質を持っている風である。 同地区に近く在していた有床診療所を買収して営んでいた頃、開業医としての仕事をしていた時に地元・人吉との差異を強烈に感じたものである。 結果としての実感は県北の人と対すると疲れる。 県南は楽。 これは個人的には同数の来院患者さんを診ると2倍から3倍の疲労感で、最初の頃はそれが心身共にヘトヘトになるレベルで、対策として昼寝の時間の延長、夕方も寝るなどと色々な工夫を凝らしたが未解決のまま諸々の事情から閉院になってしまった。 ベッドも満床で結構繁盛していたが、借金の高額さと詐欺師達に本部経費として月々に多額のお金を「抜かれていた」ことにある赤字体質が解決しなかったからだと思うが細かい経営分析をしていないので数字に強い弁護士先生の指示に従ってとても有利な条件で閉院できたと考えている。 つまり法人全体としては後始末が出来る、再生可能というレベルにあって胸を撫で下ろしている。 個人的には県北に「美人が多い」という印象で誰もが認める美人スタッフが5〜6人いて外来の患者さんの中にもそうと呼べるレベルの人が来られてそれなりに楽しかった。 可能ならばまた熊本市内で仕事をしたいと心の底で願っているが今のところ実現していない。 「行動を起こす」ことをしないのと「転がり込んでくる」ということもない。 筆者の考えでは意図(行動)と天運(転がり込む)が作用しなければこのまま事は成就しないと。 だからと言って「人吉での仕事」に不満があるワケでもなく、面白くないということでもない。 チョッピリある「ぬるま湯」感が嫌なのである。 仕事は多少挑戦的である方が面白いし、自己の成長感があって良い。 今は趣味に溺れているという有様で、何となく「老後感」があり情けない。 自分の内部に眠っている潜在能力はこんなものではないと自覚しつつも、さりとて大した自信もなくその日その日を何となく暮らしをしているという風である。 いずれにしてもモヤモヤはしている。 「何か始めたい」という欲求がまだ心の底に潜在して 「自分はいったい何者であるのか」 この問いかけをしてみると出自・ルーツ・生い立ちをたどっても今ひとつ判然としない。 何の為にこの世に生まれてきたのか。 何故に70億人と言われている地球人類の生まれてきた理由か。 70億種類あると考えてもそれぞれにしっかりとした理由がある筈である・・・というのが筆者の考えである。 それを引き出す(エデュケート)のが教育(エデュケーション)の目的であり、自分の能力を最大限使い切って死ぬことが「人生を全うする」ことと呼ぶのではないか。 「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子の著書があり、結構売れたようである。 この方の実父は何とあの2・26事件で落命した陸軍大将・渡辺錠太郎で、陸軍の教育総監であられたらしいがご自身も違うカタチで教育者(ノートルダム清心女子大学学長)として生きた。 「置かれた場所で咲く」とは功罪両面があると思う。 それは環境に適応するという良い面と毎日が安楽で無変化に向かうところだ。 そもそも厳しい環境というモノは無く、また人間は悪環境でも馴れるという特性がある。 これらをバランスさせ生き抜く為には少しだけ自分に無理をさせ、鍛え、挑戦させることを自分に課すということをすると良いと考えられる。 殆んどの場合、あまりに心地良いパラダイスのような環境は人間の生命にとって好もしくないかも知れない。 仕事あっての休暇であるし、砂漠あってのオアシスなのだ。 環境的に厳しいとされる極寒と慣例に近いほど人間がピリッとして立派だ・・・という印象がある。 米国よりカナダ、フランスよりドイツ、沖縄より東京といった感じの違い、ニュアンスで。こんなことを書くと今は「差別的」だと不愉快になられる方も多いと思うが、そもそも差別的でない論言がこの世にあるのであろうか。なんでもかんでも「言葉」をあげつらって人を非難する傾向が、最近とみに見られる。そういう「言葉狩り」みたいなことが始まってからますます、世間が窮屈になった。 筒井康隆という作家はこれに怒って「休筆宣言」までした。かなり昔のことだ。 結論:人間は置かれた場所で咲いているしかないのだ。 それに不平や不満を言っている・・・というのは客観的に深考すれば結構哀れだ。 ありがとうございました M田朋玖 |