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■ 憂鬱 | 2019. 3. 2 |
暗く重苦しい冬の朝の曇天がそうさせているワケではない。 勿論、黄色に冬枯れた田舎景色のせいでも無い。 それは「用事」の多さである。 用事は自由を奪う最大の魔物で、自由時間の最良はオートバイでありクルマであったので尚更に宴席、会食、講習会がイヤらしく仕事中の「憂鬱」まで煽り立てる。 仕事を終えた後に仕事よりも重い責務を負わされているような感覚があるのだ。 それらに敢えて順位をつけると@セミナーA講習会Bパーティー(宴席)となる。 そもそも人と集まって食事をすることが苦手。 会議が苦手。 でき得れば余暇は独りで過ごしたい。 それもクルマやらオートバイやらに乗って好きな所へ行きたい・・・。 これらの欲求が最近ますます高じて来て、それらの仕事以外の「用事」ごとがそれを楽しめない不自由感が心を苦しめる。 親しい人に会うのさえ億劫である。 畢竟、独居独行を好むというモノで、これまで結婚したり親しい人と過ごしたりして来てそれらも愉快でそれなりに幸福で心楽しいひとときではあったけれど、元々「自分らしくない」「演技だった」のかもという疑いと同時に、もう卒業しても良いだろうというワガママな決心が心の中にある。 たとえ少人数であっても集団行動を好まないという特質は何かと不便であるし、健康な人間の在り方ではない気がするけれど・・・。 友人の中には独居が淋しいと言って「結婚したい」と述べておられる男が実際に結構おられるがあまり共感できない。 「誰かと暮らす」なんて・・・。 猫一匹飼えない、イヤ金魚ですら無理。 それでそれらの独居を厭う人々よりも人と過ごさざるを得ない職業でプライベートでも何かと人との交流を迫られるワケであるからこれらの事態をどうしてしのげば良いかと考えた時、これはクルマしかない、バイクしかない。 独りで束の間の自由を心ゆくまで味わいたいと欲っし、いくらか面倒臭い手続きを、つまり準備をして家を後にするワケである。 慣れ親しんだ「愛する日常生活よ、サヨウナラ」「サラバじゃ」・・・みたいに・・・。 この年になって人に縛られるなんて真っ平だと思いつつよろしくない習性のように人に会いに「夜の店」に出て行くことがある。 これは実のところ悪習慣かも知れない。 何故ならカラオケによるストレス解消効果のみでエネルギー充電はしないからである。 「絆」という言葉が空々しく感じてしまうほどいつのまにずい分と「世間離れ」してしまった感がある。 社会という名の息苦しい秩序の中で、つまるところ集団生活を営んでいる凡般の人間である以上これらから完全に切離されて生きて行くことは出来ないし、社会や会社に寄りかかって生きているワケであるからそれに対して恩返しをするべきであろうけれど、それは「仕事を全う」するだけで完了しているモノと自己満足して、所謂「ボランティア」の類は一切せず公職にも就かないでワガママ放題、好き勝手に生きている。 それもこれも多くの人々のお陰様だという深い謝念と報恩を・・・と考える真人間の心根と、放浪者のように自由気ままに生きている自分とそれを責める「葛藤」が常に心の中で揺らめいている。 「自由」というと時間とか空間とかの自由、即ち束縛されていないという状態を指すが「真の自由」とは精神的自由であるらしい。心が何物にも何事にも、何物何者にもとらわれず、こだわらない状態となるが、これは言わば「悟り」の境地で、殆どの人はこれに達していないので多くの人は不自由人と言える。 実際に心(精神)もカラダ(時間・空間)も束縛されて、自由人から見ると悲惨きわまりないが他人がどう言って聴かせても解放されるわけではないからどうしようもない。 この手の論を説いても理解できる人は滅多にいないので諦めて黙しているしかないのである。 唯一無二の自分の人生なのであるから自分らしく好きなように楽しく生きるべきと思えるが、人の指図を受けてついでに世の中の何とはないムードに流されて自分の人生でなく他人の価値観に基づいた人生を歩んでいてそれで満ち足りていればそれはそれで幸いであるが、それらの状況に対して心の中で不平や不満を感じ、さらにまた多くの人に向かって述べ立てたり言いふらしたりするものだから自らも周囲も不快にさせて自分の人生を破壊してしまうので誠にモッタイナイ、お気の毒としか言いようがない。 昔の偉い人に言わせると、人間は一生の間「真の自由」になれることはないそうである。 そもそも自由は孤独とコインの裏表のように一対である・・・と人間関係においては言えるが世界と地球と宇宙と全ての「孤」ということは人間の場合、空間的・時間的に存在としてありえないので「孤独感」というもは人間の勝手な思い込みで誰かに「愛して欲しい」とか、人に「認められたい」、人に「甘えたい」とかの割と低次元な、いくらか感傷的な欲求に過ぎない。 所謂「淋しがり屋」というのには好悪のどちらも感じないが、自分が未熟な「お坊ちゃま」「お嬢ちゃま」と世間に向かって白状しているようなもので、大人の男女としてはあまり褒められたものではないと思うのだけれど・・・。 「憂鬱」というのはその字面のとおり物事が、思考が整理されずに混乱し頭の中で色々な雑多な考えや感情がひしめき合っている状態と考えられる。 それでモノを書くという作業はそれらのよろしくない状態の脳を幾分楽にさせてくれる治療薬のようなモノではないかという気がする。 「モノ書き」を業・仕事にしている人々は多く何らかの精神の病を患っていて、その治療の為にどうでも良いことを書きつづっているのではないかと時々妄想してしまう。 以前にも書いたが人間の排泄行為のようなもので、その排せつ物を読まされる方はたまったものではないなあ。 ありがとうございました M田朋玖 |