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■ 険と狭 | 2019. 2.20 |
女性の性格気質で最悪なのが「険」という感じで表現される特徴であるらしい。 一方、男性は「狭」 了見・度量が狭苦しいことを最低とするようだ。 逆から表現すると女性は「険しくない」男性は「狭くない」というのが好もしい。 性格気質で女性は「上品(じょうぼん)」男性なら「人物」ということになる。 イメージとして女性も男性もおおらかで寛々としているのが望ましいということになる。 油断していると即ち自己を冷静に客観視し、これらのことを意識しなければ女性は「険しく」なりやすく、男性は「狭量になりやすい」ということがあるかも知れない。 男の配偶者や親、つまり夫や親が細かくてウルサイ、神経質、潔癖というのは女性に嫌われるようだ。 一般に男性はこういう性質をもともと持ちやすく機械系、工学系、建築系、医学系などの理系と言われる仕事に携わっているとこれらの性質の良い面が活用されて「良い仕事」ぶりとなることがあるかも知れない。 ・・・であるので、それはそれとして家庭とか遊びや趣味などの人間関係ではそれらの性向を捨ておおらかに、幾分呑気に人に接するべきであると考えている。 或る種のアバウトさ、大雑把さというのは、こと人間関係においては益することの方が多い気がする。 まさに男女共「春風駘蕩」。 本人も気楽で良い。 一方女性では生理的・生来的なモノ、或いは毎月の「生理」そのものによって「険」がその態度、表情、振る舞い、言動に現出されることがある。 これらの精神的状態、行動の側面を男性は意識して「おおらか」」に接していかないと時々「揉め事」になる。 その上に嫉妬心とか子育てや金銭のやりくりなど逼迫し家族に対して「八つ当たり」したりとか「険」そのものになったりすることもあって実に悩ましい。 表情として「険」の象徴は「眉間の縦じわ」 これらの「顔」を持つ女性とはお付き合いをしない方がいい。 観相的に「男運の悪さ」を示していて男性にモテない、人気がないだけでなく付き合う男性をダメにしてしまう可能性だってある。 そもそも「険」の女性には男女共好んで近づかない。 また一方で男性が狭量でせせこましく金銭の出納にウルサかったり、配偶者のする料理や掃除にいちいちケチをつけたり、イチャモンをつけたりすると女性はいっぺんに興覚めをする。 「狭」の表現として「ケチ」「吝嗇」もあるが、これはその男性が資産家であったりお金持ちであったりしても「ケチ」であったら相手にとって「貧乏な人」と同じなのでこのあたりについても男性についての鑑定にはこの「理屈」を参考に慎重でありたい。 金持ちであると交際を求められたり人脈として大切にされたりする傾向があるが、これらは大概不首尾に終わる。 裕福な人々は自然にしていて多くの人との交際を求めないことが多いし、そもそもお金を使いたがらない。 余計な付き合いや交際にお金がかかることを本能的に知っているからでもあり、実際に自分の富を奪いに来るようなよろしからざる悪人や詐欺師が多いからである。 こういう徒輩に対して「度量」を示す必要はないが、面倒臭いので多くの富者は乱脈な交際を殆どしないでごく少数の長い付き合いの誠実で信頼できる人間との交流にとどまっていることが多いと想像している。 世界的な大富豪の一人「オマハの賢人」と呼ばれている投資家のウォーレン・バフェットなど人口数千人の田舎の町に住んで、付き合う人も極めて限られた人達だそうである。 ビル・ゲイツなどもそうだが私生活において贅沢三昧で「遊び人」という風ではない。 ボランティア活動に精を出す普通のビジネスマンで、勿論「狭」という印象ではない。 かと言って物凄く度量の大きい人物とも思えない。 知性の優った「中庸の人」という印象である。 世間で言う「細かい男」は身分の高低、貧富の度合いにかかわらず、どこにでも棲息していて家庭で、会社で、夜の店で嫌われつづける。 配偶者に逃げられるタイプの男性はアルコール依存症やギャンブル狂い、浮気性などで愛想を尽かされるタイプよりもこういう神経質で細かくケチで嫉妬深い几帳面な傾向のある類に多い気がする。 役場とかに勤めていて定時、たとえば5時20分に毎日帰って来て出勤も同様に時間どおりという面白みの全くないタイプである。 作家の渡辺淳一氏に言わせると、女性を「退屈させる」のは「罪」であるらしい。 ほどほどの緊張を強いたり危ない匂いを漂わせたりしている男で稚気と愛嬌のある男は不思議に女性に愛されるようだ。 定時帰宅男を「狭」の人とは呼ばないであろうけれど、少なくともライフスタイルの振幅において「狭」と言えるかも知れない。 また秘密の多い謎めいた男には誰もが惹かれるようである。 勿論裏表のない真正直で素朴な男の方一般にはが好まれるが、こと女性に限っては何故か前者の勝ちであるようだ。 女性の「険」については同音の「倹」と紛らわしいが、勿論後者には好感を持たれる。 それに目的があれば尚更良い。 険しい、トゲトゲシイ、剣呑など人に対する悪印象というのは存在として大損、とりわけ女性にとってそうであるように何と多くの女性が無意識に油断してこの「険」であられることよ。 オットリして物静か・・・いても穏やかな微笑みをその相貌にたたえていて、聞き上手で美人・・・というタイプは殆ど見かけない。 いかなる事情があれ「険」だけは何としても避けたい。 これは「怒」よりも悪い気がする。 『どちらも「音」は同じだが男性も「狭」より「侠」つまり男気。 女性は「険」より「倹」即ち何事にもつつましやか。 これらの言葉が男女共を「醜」から遠ざけさせ「美」に導いてくれ、人生を実り多く楽しいものにさせる』。 「贅」とか「傲」とか「放埓」とか女性のそれはとても醜い。 反吐が出そうだ。 「侠」には度量の大きさが含蓄され「倹」には節操とか貞節とかの言葉が包含されていて女性を上品にさせる。 男にとっては「侠」とは仁や義のために敢えて損が出来るということ・・・と考えている。 昔のヤクザ映画の「侠客」とはこの人々を指す。 ちなみに暴力団の綱領などを読むととても立派なことが書いてある。 男女共に同じ「音」の「謙」も良い言葉だ。へるくだる。これも人柄人格の大切な美徳である。 言葉とか読みとか「音」とか、とにかく興味が尽きない。また言葉と行動は必ずしも一致しないものだ。 立派なことを言ったり書いたりするからと言って、その人物や組織が立派ということはない。そのことを良く示してくれている社会における暴力団の存在にもまた、違った意味の存在理由があるのかも知れない。 ありがとうございました M田朋玖 |