コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 貴重品2018.12.21

海外旅行に行くとツアーコンダクターから何回も貴重品の安全な保持についてアナウンスされる。
どういうワケか何度も行かされる羽目になった海外旅行も少しは慣れたのか「貴重品とは」とアタマに浮かべたらすぐに思い起こせる。それはパスポート、クレジットカード、現金、航空券、携帯電話などだ。

これらの3種から4種の物品はまとめて入れる大型の財布兼用のパスポート入れに収納して胸ポケットに差し込んでいる。勿論携帯は別。
肌身離さずというほどではなくても、バッグやポーチよりは意識できるし、基本的にフリーハンドになるので外敵、即ちスリや強盗や暴漢の類に襲われても手ぶらなので逃走も身軽で容易だし、必要があれば「戦う」こともできる。
このような点で男のスーツというのは極めて便利だ。ポケットの数が多い。それで海外に限らず旅行と言えばスーツを選択している。迷わずに。

それでも貴重品への意識を散らさない為に左胸のポケットにそれらを差し込んでいる。
昔はさらに用心深くパスポートのコピーとかそれ用の写真とか2枚目のクレジットカードといくらかの現金を分けて別の財布に入れて足首かなんかに巻きつけていた頃もあったがこれはメンドクサクて後からはやめている。
結構用心深いタチなのか海外旅行というと油断は絶対しない。
何が起こるか分からん。
或る意味オートバイに乗る時の緊張度に近い。

しかし真の意味での貴重品と言ったら自分の生身の生きた肉体と精神と記憶、それに付随した類と考えている。
それで身体の安全を確保する為に物品としてのパスポートその他とか別に転倒とか怪我とか事故とか事件とかに関わらないように用心するワケで、これは日頃のオートバイの乗用が役に立っていて、荷物はコンパクトに・・・というコンセプト。
基本手ぶらでも海外に行けるように使い捨ての下着とかを右の胸ポケットに入れたりしたこともあった。
手に提げる、或いは肩にかける、或いは背負バッグなどにはモチロン当然ながら絶対「貴重品」は入れない。
現地で捨てても良いような安物の古い衣類と、これまた軽くて読みやすい文庫本2冊くらいだ。
カメラとかも今は携帯電話と一体化しているので持って行かない。
勿論パソコン、ビデオカメラなどの精密機械など持ち歩かない。
そもそも今は携帯で全てコト足りる。
海外だからと言ってサムソナイトというブランドのキャスター付きで硬質の旅行カバンなどは使用しない。
肩から下げられる大き目のスポーツバッグを持って行く。
それこそカラダの動きが俊敏になって愉快だし、空港内やホテルでの移動が楽で簡単になる。
手触りが柔らかいのでイザとなったら枕にもなるしソファーにもなる。
空港で長い待合の時には実際にそうしていることがある。

人間にとって貴重品って何だろうと考えるのはバイクとかと海外旅行だ。
自分という物体としての存在を証明するパスポート、それも日本国のソレを持っていると海外旅行ではとても便利だ。
基本的にどこの国でも歓迎される。
日本人が総じて大人しく、礼儀正しく、親切で、清潔好きで、クレームが少ないことは多くの国々で広く認識されているようで、ホテルのスタッフから嫌な顔をされることは滅多にない。
ただ英語の不得意な日本人のたどたどしい英語も時にはイライラするようで、逆にハッキリとブロークン英語で割り切って「タクシー」とか「ホテル」とか「レストラン」とか「エアポート」とか「ウォーター(水)」とかすべからく単語にしてしまうと伝わりやすい。
始めに流暢に話し始めると「英語を話せる人」と勘違いされて、早口でまくしたてられたりして困惑することがある。
用心したい。

人生行路における貴重品は少ないほど良いと昔の偉い人が皆さん口をそろえて述べておられる。
「何も持たず来なさい、神の国へ」とキリストも言っている。
有名な台詞だ。
マザーテレサのようにバケツとサリー(インド人の簡単な衣装)だけというのが聖者・悟者のライフスタイル。
我々凡俗の一般庶民は持ち物に拘る。
家やクルマ、家庭、配偶者、愛人、ペット、寝具、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、パソコン・・・など数え上げたらキリがないくらい貧者も富者もそれらのモノに囲まれて生きている。

それらは皆、捨ててしまったらどうなるだろうかと実験的なテレビドキュメントがあった。便利な生活の為に最初の「意気込み」を断念したら再び少しずつさまざまの生活用品が増えてしまって困惑しておられた。
人間生活を「清貧」にとか「シンプルライフ」とか「断捨離」とか言ってもそれほど簡単ではなさそうだ。

オートバイで飛ばしている時に思い浮かべる「貴重品」と言ったらこの我が身。時間が来たら必ず朽ち果ててしまう宿命を厳然と持っている柔らかくはかない「肉体」「生命」で、それ以外の物質・・・それはオートバイも含め物質的な貴重品の価値をはるかに高く凌駕している。それなのに異様なほどそれら(クルマ・バイク・その他の物品や金銭など)に執着して自分にとっての「貴重品」だと言って自分よりも大切に愛蔵し、手入れをしている姿には深い驚きを禁じ得ない。
それらの傾向は若い人に多いのであるけれど、筆者のような年齢になるとお金で手に入るものを「貴重品」とはとても思えない。
またお金そのものもそれほど「貴重品」とは思えなくなった。
たとえば数百億、数千億、或いは数兆円の富を所有しているからと言って「人生の時間」とか「生命そのもの」を買うことはできない。
これらのことを深く理解するとこの世界に貴重品なるものは存在しなくて、ただ単に

「それが無いと不便というだけの代物」

ではないかと思える。
またその物品や事柄や、はたまた物品ではないが、生命や健康が「貴重品」と思えるかどうかそれぞれの価値観に準拠している。究極的には価値観のあり方についてはいくらかの知性と教養が無ければ傍から見ていて「妙チクリン」とか「滑稽」とかの印象を持ってしまうことがある。

特に使い切れない莫大な富を所有している富者たち。彼らはそれをいったい何に使うのだろう。
こと使い道と言ったら人類の進化発展の為とか人間の幸福の為にしか使い道は無いのではないかと考える。自分と自分の家族のためだけにそれを使うのだろうか。
それは幸福な人間の行動で、不幸な人間は個人の贅沢とか欲望の満足とかどうでもいい見栄などに費やしておられるように見える。
そういう人は必ず早晩人生生活が破綻してしまい子孫も繁栄しない。
今、貴重品と言ったらやはり「時間」と即答できる。これは「物品」ではないが。

時に、自分のパートナーのことを唯一の「貴重品」とさりげなく言葉にする人がいるが、これは相当に人間の練れた苦労人か詐欺師である。意外に後者の方が巷に多いと見ているが、皆さん油断して大概騙される。

「毎日を楽しく愉快に気分よく生きている」ことの方が世間で言う「貴重品」よりはるかに貴重だと、最近つくづく思う。

ありがとうございました
M田朋玖



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