コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ エリート主義2018.12.11

広く世界的に経済の繁栄発展を遠望すれば中国の台頭、拡大がつづいている。
10億人以上の人口と表題に掲げたエリート主義の力による結果なのではないかと考えている。

先進国を中心に流れている空気は、所謂ポピュリズム(大衆迎合主義)というモノで、これに対抗する言葉としてエリート主義という言葉を提示してみた。

今はネットの情報が世界中に広々流通していて人々はこれらに簡単に動かされている。
テレビを中心としたメディアとネット。
これらが大衆を突き動かしているようだ。
アメリカの現大統領、ドラルド・トランプ氏からしてメディアに対抗するツールとしてネット(SNS)を上手に使っている。
まるでステートメントそのもののような内容まで。
筆者はテレビとネットと新聞を考えてこれらにはあまり接触しないようにしている。
何故なら迎合とかしたくないからである。
勿論全く観ないワケではないが。

ポピュリズムの恐怖の一番は「戦争」である。
人々はいとも簡単に洗脳される。
時々コンサート会場などの熱狂を見るとそれらの有様をシンボリックに観察することができる。
野球場、サッカー競技場などの群衆の光景はナチスドイツの全盛期に見られたおびただしい数の人間の「集団」についての恐怖を心の底に抱いてしまうのだ。

それらの熱狂を煽ったのは、当時はラジオと宣伝フィルム(映画)であった。
ラジオの興奮煽動力については偶然経験したことがある。
大韓航空機撃墜事件の時である。
1983年9月1日に起こったこの不幸な事故(?)は、たまたま熊本市内に行くクルマの中のラジオで聞いていたので、その興奮気味に話すアナウンサーの声が繰り返された為にこれは「絶対戦争になる」と憤激し恐れながら市内に到着し、知り合いの書店の主と会話すると意外にもひどく冷静で淡々としている。
この温度差は何かと考えた時に、あっそうか「テレビとラジオの差」だとすぐに得心したワケである。

テレビというメディア媒体は一種の強力な大衆心理の冷却装置であるらしい。
このことは書物で読んでいたので容易に納得できたワケであるが「音」と「声」には興奮を亢進させる力があるようで、人気歌手のコンサート会場での熱狂を「音無し」にして観たら誰もが白けてしまうに違いないと思えるほど。
逆に見るときわめて強力であると思える。

テレビの無い時代はラジオ放送と群集心理とのミックスで人々は簡単に興奮させられ、操られて愚行(戦争)をする。
人間の戦争の歴史はメディアの登場以前からあって、ラジオの出現によって瞬間的に加速させられテレビの発明と普及によって少なくとも先進国では「戦争が起こりにくくなった」と考えている。
テレビの発明は日本人であったので日本人が今後も世界の平和をリードしていく、またするべきと考えている。

世界唯一の被爆国という経験と存在感だけでなく他者に対する寛容さと中庸(儒教)、無私無常(仏教)、「和」の精神などなど平和を構築する為に有益な精神構造を多面的、根本的に備えている日本人の思想と性向は世界平和に大きく資すると思えるのだ。
また日本人の犯罪発生率は先進国中最低なのだ。
少なくとも国内の平和は保たれているではないか。
「テレビは熱狂を冷やす」
それはどんなに悲惨な映像を見ても報道の仕方によってはアジテーションにならない。
即ち人々の興奮を戦争に駆り立てることがなく庶民大衆の熱狂を適当に鎮めていると考えられる。

元来クールな思考というのはエリートのモノではないのか。
多くの大衆というのは発狂したかのように衝動的、感情的に動く。
たとえば残虐な殺人犯の家族が警察やそれに類する機関から保護を要するほどメディアと大衆の攻撃に晒され、結果的に本名を隠して現住所からの避難をせざるを得なくなるという現状を考慮すると、それらの人々(一般大衆)という者共が簡単に、冷静に考えてみれば明らかな愚行をするということを鑑みるとそれに類するポピュリズムというものの恐ろしさが色々な面で滲み出てくる。
それらを何とか抑え込めるのは「エリート主義」という政治経済の風土や文化なのではないだろうか。

高い知性と教養と経験を積み重ねた所謂選良(エリート)が国民、庶民、大衆を自己犠牲的に善導していくというもので、先進国の多くはこれを理想として機能しているように見える。

即ち官僚=エリートだったのである。

この体制を崩そうとする悪意の第三国に操られた勢力がメディアを使ってポピュリズムを煽っていると思える。
今現在、世界の国々の中でエリート主義を徹底させているのは中国であるように見える。
政治は勿論のこと、経済を含めあらゆる分野に介入し統制している。

結果的に中国のチカラはますます増大し、相対的に世界支配を出来るほどに伸長拡大増強しているようだ。
行政府が殆んどの権力を集中させ統合し世論を抑え込んでポピュリズムの台頭を許さない。
これはもう「勝負あったり」だ。

日本国も戦前のように官僚と教育者についてはもっと権威と権力と地位を与え、エリートとして遇するべきではないだろうか。
そして職業軍人、現在の防衛大学も陸軍士官学校、海軍士官学校のように防衛航空大学とかでエリートを養成し東大・京大など旧帝大に官僚の専門家を設置し教育者もかつての師範学校のように東京や大阪など大都市に教育専門大学を設けて徹底的にエリート教育を施し官僚と軍事と教育に各エリートを配置してそれなりの身分と待遇を賦与すれば国家ももう少し向上発展し隆盛するかも知れない。
多少国家主義的な考え方に基づく施策であるが今よりも国力としては上昇すると思える。
「行き過ぎた自由主義、資本主義は偏狭で破壊的」とは小説「震える牛」で相場英雄氏も書いている。
エリートという集団は愚コラムで何回か書いて来たが悪しき存在ではなくよろしき者共としてそれなりに尊敬をして公僕として国家や国民に尽くしてもらおうじゃないかというご都合主義的なアイデアなのだ。
国民が政治や経済などにイチイチ頭を悩ませる世の中はあまり良いモノではないと中国の古典にも書いてある。
最も良いリーダーは名も知れず恭しく政を行い、役割を終えたら人知れず静かに退場する・・・。
大衆庶民はそれらのことに全く関知せず楽しく平和に生きている。
それぞれの人生を楽しんでいる。
この現象、即ち政治に関心のない若者の多い我が国の現状で誰も言わないが元々ひょっとしてエリート主義国家なのかも知れない。

ありがとうございました
M田朋玖



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