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■ 「東京家族」 | 2018.12. 6 |
こういうタイトルの日本映画が最近公開されていてテレビで放映されていたので観てみた。 NHK-BSである。 小津安二郎の世界的名作「東京物語」のリメイクであるようだ。 物語も概ね前作に沿って製作してあった。 けれどもやはりというか「似て非なるモノ」という感想を強く持った。 どこが違うかというとまず映像美である。 観ていて目が少しも喜ばない 小津作品にあるワンカット、ワンカットの絵画的な美しさが残念ながらひとつもない。 逆に見たくもない現実やリアルな人や物が吐き気を催すほど次々に映し出されて気分が悪くなる。 イントロからして電車の行き過ぎる手前のごみ置き場の映像だ。コンセプトが全く異なるようである。 小津作品の良さというのは「現実」とかけ離れた「作りモノの美」ということが理解されていない。 戦後間もない頃の作品なのに戦争の影が少しも出て来ない小津作品。 世の中の貧窮や混乱を削ぎ落し「醜」と思われる言葉や物品を上手に画面から消し去っている。 そもそも映画とは言うならば夢の世界、幻の世界を「売っている」のであって現実をありありと「見せる」娯楽芸術では決してないと思うのだ。 場合によってはそれも良いだろうけれどそういう作品には心魅かれない。 現代版家族物語の「東京家族」では少しも修正を加えずありのままの現実を「見せてくれる」ものだからいっぺんに興ざめする。 毎日見ている事柄や物事を映画でまで観たくはないと思うのが一般の人々の心情ではないだろうか。 日本の映画界における三大巨匠というと溝口健二、黒澤明、小津安二郎であるらしい。 彼らの映画作りはあくなき映像美の追求という共通点を持っている。 それは完璧主義とも呼べるほど偏執狂的で妥協を許さない類で、さまざまな「作為」が映像作りの為に工夫細工として加えられている。結果として素晴らしく芸術的な映像と音が完成しているのだ。 「東京家族」の駄作ぶりは凡百のホームビデオにも劣る。 自分なら自信を持ってこの作品より良い「絵」を「撮る」という自信がある。 絵画とか芸術とかの「美」に接することと同時に美的センスを磨く為のさまざまな努力をして余程感性を豊かにしておかないと良い「絵」は撮れない。 さらに天分みたいなセンスが総合芸術としての映画には必要と思える。 先述したお三方にはそれらがあられて尚且つ洋服のセンスが良い小津安二郎の出演者達のファッションはそれだけで観客の目を楽しませてくれる。 それらの工夫と作為の結果としての映像であるのにさり気なく撮ったどうでも良い日常など観たくもない・・・というのが筆者の感想である。 小説にしろ、絵画にしろ、写真にしろ、映画にしろ「リアリズム」というものの扱いが無造作になり過ぎて「そのまま撮ればリアル」とは言い切れないのではないかと考えている。 リアルが面白い時もあるのでヤヤコシイが、時々テレビ局のやる「ヤラセ」もチャンとした理由があって、映像としても物語としても現実が少しも「オモシロクナイ」ということも多いということを制作者は気づいていて数々の「ヤラセ」をするのである。 筆者がもしかして取材番組を取るなら、そこにかなりの罪のない「ヤラセ」をして画面と音を作ってしまうと思える。 「そのまんま」というのは、こと芸術については美的、物語的でないことが多いと思えるからだ。 人間の目で眺める現実の世界も見方によっては絵画的で面白いと感じていた時代があって、その頃は映画を一切観なかった。 これは秋元康という今を時めく著名な作詞家、プロデューサーのエッセイで見つけた言葉で「映画を観ることをやめた」とあってこれを機に一定期間映画鑑賞をしないでみたところ映じる世界が結構面白く感じたものである。 確かに他人が作り上げた物語や映像が自分の感性に合わずに「面白くない」ことも多くある筈だ。 それでも先述した三大巨匠の作品のいくつかはとても秀逸で普通の人では真似のできない素晴らしい「何か」があって、それを一言で集約するなら「美」というものである。 それも素晴らしく格調の高い美である。 そんじょそこらの凡万の感性しか持ち合わせていない制作陣にはとても「撮れない」作品であることをあらため「東京家族」で確認したワケである。 こういう風に映画を作ったら誰も観てくれない・・・みたいな。そもそも映画についての考え方思想が全く違う。 近々、件の巨匠たちのデジタル修正版を3Kか4KかでNHKが流すらしい。 これらの作品群の基準値として、比較対象として意地悪にも提示された作品が「東京家族」であるかも知れない。 これは誰が観ても駄作である。 残念ながら最近はこの程度の映画が増えてしまった。 時々、稀に優れた映画作品が公開されるが極めて僅少だ。また各映画賞を受賞したからと言ってオモシロイ作品であるとは言えない。 ありがとうございました M田朋玖 |