コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ ヒポクラテスの亡霊2018. 8.15

お医者さんの服装で面白いのは、不思議にポロシャツ。
それも鮮やかな単色ではなく、微妙な、地味な色目のボーダーストライプか大きなチェック柄で、またそれをズボンの中に押し込んでいる先生が多い。
この世間的に「ダサい」と言われているファッションを平気でなさるのには驚くが、勿論指摘もできないし、お医者さんの集まりなどに行っても所謂少し流行を取り入れた「素敵なファッション」に遭遇することは滅多にない。

また「食べること」がお好きな先生も多い。
製薬メーカー主催のパーティーかなんかに出席すると、ステーキを切り分けるコーナーがあって、そこに並んで待っている男女のドクター達を発見した時には思わず「ひいて」しまった。
筆者はパーティーで飲食する習慣がないので、大概水かウーロン茶かコーヒーを飲んでいいるだけ。
その上素面であるからそれらのお医者さんの生態を観察すると上記のような光景を目にすることが多い。
それらのパーティーなどならお医者さんなら男女のファッションショーみたいな光景が見られてもいいのではないかなどと考えている。一般庶民より少し所得が高いはずであろうから。

着ている物に「こだわらない」先生がおられる中、我が人吉市内にもとても素敵に、ファッショナブルにスーツやジャケットをさり気なく着こなすダンディーな先生がおられたが、今は御年77歳で犬の散歩をする姿を時々見かけると腰が曲がったお爺さんである。
ヨーロッパ人、とくにイギリス人には年を重ねても「紳士のまま」というカッコイイ男性を見かけるので、この日本の惨状、特にお医者さんのソレはとても残念である。

また挨拶のキチンとできない人も多い。
医者はなりたての頃から薬屋さんやそれに類する業者にチヤホヤされるし、難関大学を乗り越えて来たという自負とか矜持とか・・・とにかくプライドが高いので自分から挨拶する方は殆んどおられない。
これは意外と気づかれにくい普通のお医者さんの特徴だ。

お金を出すのを「シブ」る。
所謂「ケチ」も多い。
勿論そうでない方もおられるが、普通「ケチ」である。
やたら気前の良い人も妙に恩着せがましかったり、それを吹聴したりして傍目にはとても見苦しい。

モノ知りで勉強家も多い。
全く逆もおられる。
逆の人はとても悲惨である。
社会の情勢や常識の獲得が難しくなって奇妙な独語のような会話になりやすいか、黙っておられるかのどちらかである。
モノ知り派の多くは読書家であられるが実学にまで落とし込まれていないと一般社会で通用しないこともある。
専門性に偏ると社会的に立派な立場に「座」を得てもそれ(座する位置についての見識良識)に気付かず広く高く遠景で観察すると、奇妙な行動言動に終始して教養人から「軽蔑」されている先生もおられて、極めて残念な気持ちを抱く。
いずれにしても生き方として生活スタイル全体として「素敵な」という人は極めて少ない。何故なんだろうと考える。

女性関係も乱脈な傾向があり誰でも彼でもところかまわずという先生と、奥さん一筋という先生がいて、ここら辺は一般庶民と同じであるが、何しろ使えるお金があるので外国人(白人、アジア人)に走る先生も多い。
特にフィリピン人は人気で「結婚」したりする先生もおられる。

自分もお医者さんなので油断していると上記のような特徴を持ってしまう。
何しろボーダーのポロシャツやチェック柄のオープンシャツは筆者の卒業時頃の写真にキチンと残されており愕然としてしまった。
オソロシイことだ。
これこそ医者病だ。

今の仕事が余程オモシロクナイのか昔話がお好きで、どこどこの大学を出たとかどこぞの有名進学校出身であるとか医局の仲間がどうとかこうとかそのような実にクダラナイ話をなさるのでこちらとしては辟易させられる。
それとゴルフの話、麻雀の話、医療行政の話など話題が割と限定されてこれまた少しも面白くない。
時には「一家言」持っておられる先生もいるが、その知識や経験を頑迷に死守されたりするので会話の端口が途切れてしまって「ウンウン」「そうですネ」みたいな合槌に終始してしまうこともままある。
自分がお医者さんのことを悪く書いているツモリはなくて、これを読んで外見的にも内面的にも行動言動としても「美意識」とか「美学」とかについて思いを致せばという自分を含めたお医者さんという職業の人々に一考を促したいという思いでこれを書いている。余計なお世話かも知れないが。また当コラムはいつも自戒の書なのである。
いくらか「上から目線」で「テキトー」ではあるが、そもそもモノを書くというのにはそういう側面があるものだと解釈され切に御容赦を。

人間として「美意識」というのは実に大切な心(脳)の働きで自分の行動やふるまい、態度に一定の善なる「枠組み」を伴ってくれているし、人間社会を「真・善・美」という高いレベルに引き上げてくれるありがたい脳の働きであるので、これを鍛えるというのは人間として生きて行くのに極めて大事な事であると思える。

『世界のエリートは何故「美意識」を鍛えるのか?』という本が人気第1位として書店の入り口に平積みにされているのを見て速攻買ったのであるが、これは当たり前のことを当たり前に書いてある書物である。

タナベ経営という経営コンサルタント会社にしばらく親しくお付き合いさせていただいたのであるが、経営者の仕事は「真・善・美」を広く社会の中で実現するという目標を持っていて、それを社員と共に・・・みたいな文言を戴していた。
最近はこの意味が少し分かるようになった。
「真・善・美」これらの実現に医者という職業は極めてよくマッチしており、これらの方向性は自らの仕事に揺るぎない良質な「信念」をもたらし、強い仕事のやり甲斐を生み出すことと思える。

「世界中の医者は何故美意識を鍛えるのか」という本はとうてい出版されそうにない。これはもはや医者がエリートではないということを物語っているのであるうか。医聖と呼称されるギリシャ時代の医者・ヒポクラテスの「ヒポクラテスの誓い」というのがあるが、この文書にはかなり問題がある。「美意識」などというレベルには届かない。

『医術の知識を師や息子、また、誓約で結ばれている弟子たちに分かち与え、それ以外の誰にも与えない』

『師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。』

『師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える』
ナンじゃこら〜だ。オウム真理教かぁ。

上記の文章には強い違和感を抱かせられる。医者の世界の閉鎖性と師弟関係の歪みとイヤらしさをあらためて思い知らされる。ヒポクラテスの思想が世界中の医者の共通認識とすれば、現在の医者たちの「世間ズレ」もある意味了解納得出来ないことはない。これとは全く別の「誓い」を誰かしら立派な人物が書いて、「美意識」という味の素、香辛料を少しだけ混入させたらお医者さん達も今より美しく素敵で多くの人々に親しまれるだけでなく深い信頼と尊敬と愛を勝ち取り、それが良循環を生み出しさらに美しく善良に人間や宇宙の「真理」に向かって進化していくのではないかと思えるが実際はそうは見えない・・・。

残念な実態である。
自分を含めて。医学教育とか医療制度にその因を求めるのは簡単であるが、そうではなくて世界中どこでも「医療の本質」とか「医者のあるべき姿」というモノがキチンと確立されていないからだと思える。
現段階で確信をもって言える医者の持つべきあるべき姿勢は「謙虚さ」なのではないかと考えている。これは医聖ヒポクラテスの「誓い」には流れていない「精神」である。まさにヒポクラテスの亡霊が今も世界中を悪霊のように覆っているのだ。
重ねて述べるが、医者の持つべき「美風」とか「美意識」もはやはり「謙虚」さなのだ。また許容できるレベルの「正直さ」もそれらの要素と思える。許容できると言ったのは死病における「告知」の問題や「守秘義務」を配慮してである。自戒自戒ですなぁ。あらためて。

ありがとうございました
M田朋玖



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