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■ 盛夏に思う | 2018. 7.23 |
夏の盛り。 7月の中旬も今日19日が最後だ。 猛暑とは言え職場(医院内)は当然エアコンのお陰で涼しい。 それでも外の炎暑の影響は厚いコンクリートはともかくガラス窓から侵入するようで、室内であっても相応に暑い。 デスクの上の小さな扇風機が有難い。 今年、平成30年の夏は記録的猛暑であるらしいが元々九紫火星という年まわりで、その字面のとおり「火のように、燃えるように暑い」とイメージが浮かぶ。 時には戦争が起こったりもするが大きな戦争や震災とかはやはり五黄土星の年に起こることが多い。 たとえば関東大震災・大正12年9月、太平洋戦争(連合艦隊の真珠湾攻撃)・昭和16年12月、阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件平成7年1月など。 ザっと調べても50~60%は五黄土星の年に起こっているようである。 特に曲々しい事件ほどこの年まわりに多くなっているようである。 猛暑と言っても数10年前、筆者の少年時代は今くらいの暑さだったように記憶している。 何しろ夜にも海や川やプールに泳ぎに行けたくらいであった。 少年時代の遊び盛り、それは思春期から青年期のハチ切れんばかりの性欲満々、強壮極まりない青春時代の真夏には夜を徹して狂人のように遊び惚けたものである。 そういうことを思い出させる今夏の暑さである。 石原慎太郎の小説で映画化された「狂った果実」は弟の石原裕次郎と後のその妻となる北原美枝の縁を結んだ記念碑的作品であると同時に前作「太陽の季節」から生まれた「太陽族」なる、言わばチンピラのような風体の若者の集団と「慎太郎刈り」という髪型を世間に流行させた。 その時代の若さというか活気というか激しさ「熱」を象徴するエポックメイキングな作品となっている。 作品の出来はともかく「若者と夏」という組み合わせは今も昔も、とりわけ昭和30年代の日本人の熱くたぎったエネルギーと強烈な生命力を感じさせる。 今時は「暑い、暑い」と言っては「熱中症」とかの急性症状を恐れて家に閉じこもりクーラーの中で優雅に涼んでいる・・・という人々のありさまとは隔世の感がある。 昔はクーラーそのものが自家用自動車と同様に大変な贅沢品で昔の映画でも扇風機が盛んに首を振っている。 これは昔の夏の映画の定番的ないくらか懐旧的舞台装置になっている。 今は夏だからと言って少なくとも夏だ、山だ、海だ、遊びだ、ドンチャン騒ぎだ、ビアガーデンだ・・・という勢いにはならないようだ。 皆さん暑さがさらに苦手になり、夕涼みや山、川、海ではなくまずクーラーのスイッチを入れる。 近頃のエアコンの性能向上は目覚ましく、コンパクトで安価であっても大概「省エネ」タイプで暖かさも涼しさもしっかりと確実に人間にとっての快適さや心地良さを提供してくれる。 そのような便利さ、快適さ、手軽さによって人間が少しずつ環境に対して忍容性が減弱して逆に活力、生命力が落ちているのではないかと考えることもある。 60代半ばという筆者の年齢ですらそれを時々感じる。 怠慢してバスケの練習にも行かず、バイクにも乗らないで涼しい部屋で寝転んでゴロゴロ「ばかり」していると一気に「老け込んだ」ような気がする。 ついでに美味しい物をたらふく食べているとさらにそれが増幅するようで、睡眠時間さえ確保しておけば空腹という軽い飢餓状態と、暑いとか寒いとかの悪環境と同時に仕事やスポーツなどの自己鍛錬的な種々の活動や禁欲的飲食生活は生命力の増進に好影響を与えてくれる気がする。 長寿者の研究を30年以上日本全国の調査で実施した某大学の教授の言では、海藻や野菜の多食と少量飲酒と同時に過重労働はそれを伸ばし、一方間食、果物食、米飯多食と仕事をしない人は短命という結果だそうである。 動物の場合、活動性=生命力とも受け取れるので、特に若者の場合、こと遊びにおいてもオタク系より体育会系、アウトドア系の方が全身的活力について後者の方に分があると思える。 話しを戻す。 件の「太陽族」もしばらくは夏の若者の風体の基礎となっていて、髪型がリーゼントになったりパンチパーマになったりGIカット、ヤクザカット(角刈り)、アフロヘアだったりとバリエーションはあっても特徴としては仲間内で「おそろい」という統一感で、それはサングラスにアロハシャツ、細いベルト、ダブダブのズボン、ビーチサンダル或いはデザインの固定された類であった。 しばらくジーンズにTシャツというコスチュームもあったがどちらかというと傍系である。 要するに典型的な「チンピラ」のイデタチで、ワザワザ男同士で喧嘩をしたり、ワザワザそれほど好きでもないのにナンパをしたり、要するに仲間同士で徒党を組み「イキガッテ」見せているだけの幼稚で愚かな集団で、元気な若者なら誰でも一時的になる「病気」みたいなものである。 勿論、全くならない優等生もいるらしいがそれらの若者達の生態の一部を切り取って、ひとつのどうでも良い物語にして社会に提示され大衆世間、文学界の耳目を集めたというだけで今では「暴走族」にその名残があるが、最近は「チンピラ集団」そのものを街で見かけなくなった。 皆、酒も飲まずたばこも喫わず、クルマにもバイクにも乗らず、ナンパもせずゲームとパソコンとスマホとせいぜいパチンコなどのギャンブルである。 昔の人間、昭和の男から見ると少なくとも少年・青年はハッキリ言って「腑抜け」に見える。 独身独居の若い男でも週末は「お洗濯」だそうである。 分類的には「チンピラ」と対極にあった「体育会系」の方にまだ望みがある。 少なくとも精神と肉体が「腑抜け」では存在できない。 今さら「太陽族」の時代に戻ることはできないが、大昔から連綿と長らえている「夏の高校野球」の応援団を含め選手たち、学校生徒に象徴される若者の昔日の熱のあるエネルギーの高揚は見ていて清々しい。 ムンムンとする真夏のエネルギー。 60代の自分にも湧き上がってもてあましているほどであるのにハチ切れんばかりのエネルギーのマンマンと充満している筈の今の若者たちにそれらのエネルギーの発露を感じなくなった。 全くの勘違いかも知れない。 何しろ彼らとは住む世界が違うし、それくらい年齢が離れてしまった。 とにかく「盛り」なんである。 性的な意味合いになると露骨に卑猥な言葉になる。 特に女性については・・・。 「盛夏」をそのまま読んで「盛りの夏」という読み方にするといかにもいかがわしく淫らに感じる。 だから最近ハガキなどに盛夏などと書くのに少しためらいがある。 いったいどんな夏やねん!? ありがとうございました M田朋玖 |