コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 夜月2018. 7. 3

6月下旬の或る夜、午前3時に目覚め、気まぐれにベランダに出たら煌々とした月夜。それは満月に少し欠けたくらいの大きさでも眩しいくらいに明るい月。南西の空にぽっかり浮かんでいて、田舎町の屋根々々を白々と照らしている。
それはたそがれ時を思わせる素晴らしく美しい青色で、月光が家々の屋根を明るく反射させ、深夜の神々しいほどの静けさと相まって多分に幻想的でウットリするほどの美景であった。
映像的にはディズニー映画のそれで、美しい妖精とか宇宙からの善良な来訪者の舞い降りるサマを想起させる。
孤児院かなんかで暮らす少女の孤独や悲しみや心の痛みの慰めを夜空に求め小窓に顔を寄せ、涙を流す姿・・・かなり情趣豊かで絵画的な景色が眼前に広がっていた。
月をオブジェにした巨大な青い芸術作品。
雲が動く、月も少しずつ動く。
静寂と月光と微かな涼風が盗汗で湿った肌に優しい。
この瞬間には音楽は不要だ。
有害ですらある。
ビールの500ml缶のプルタブを引き上げ、ビアグラスになみなみと注ぎ入れて片手に持ちチビチビと舐めながらベランダの手摺にもたれてこれらのすべてを楽しんだ。

いつものように田舎住まいの喜びを満喫する。
勿論、都会の高層マンションでもきらびやかな夜景と一緒に「月」を見ることはできるかも知れない。
けれども青い山の稜線、たなびく雲、きらめく星々など繊細で優しい自然の美しさについては都会の月には明らかな遜色があるに違いない。
六本木ヒルズとかの超高級高層マンションに住まわってブランデーを片手にフカフカのソファーに身を沈めて眺める夜景などよりこの田舎町の空や雲や山々、ついでに虫の声、朝に鳴く鳥の声などはるかに人間の精神には良い影響をもたらすように思える。
少なくとも何億円かの費用もかからず手間も要らないし、基本的に只なのである。
健康な精神と五感さえあれがこと足りる素晴らしい快楽なのだ。
それと自覚し、感覚しさえすれば・・・。

多くの人はあまりに身近過ぎてそれらの本当は深い喜びをもたらす素晴らしい自然の光景を或る種の感動をもって眺望することはない。

良寛という曹洞宗(禅宗の一派)のお坊さんは「月を一日中眺めている」ほど有名な「子供と遊ぶこと」と同じくらい月を愛でたというエピソードがあるらしい。

「無欲括淡」というのが良寛の生き方であるが、このような生き方で見えてくる一番のモノは「自然の美しさ」ではないかと思える。
金銭や物品や娯楽の交歓とそれらを使った「経済活動」と称するゲームに没頭させられてもっとも価値の高い人生そのものや自然の持つ無限の喜びを犠牲にしている人々の何と多いことか。
自分も含めて・・・。

「あなたの人生の喜びにソレは本当に必要であるか」・・・と月が問いかけてくるような気がする。
早朝や夕べに観るうっすらとした白い斑点のような月もナカナカのものであるが、深夜に観るそれはまた見事である。
「竹取物語」という物語があって、月の人・かぐや姫はとても美しい女性として描かれている。
個人的には太陽のように明るい熱を持つ女性よりもいくらかひんやりとした感触のつつましやかな女性の方が魅力的に感じる。
これは好みの問題もあるが、男性が陽(太陽)で女性が陰(月)というのが古典的には理に適っていて、近頃はこれが乱れて正調な男女関係がそれぞれの「らしさ」を失い、交流交歓が不首尾に終わっている例が多い。
陰と陽があきらかに逆転している関係性も散見され、説明が面倒臭いので黙っているが極めて気の毒な男女関係に陥っておられる人々も多い。

太陽、それも朝の太陽は強力なエネルギーと活力を生物に与えてくれる一方で「夜の月」はまた強力な鎮静と癒やしをくれる気がする。
手を合わせたくなるほどの神聖さ、神々しさについては両者(太陽と月)ともドッコイドッコイ・・・というより比べられない。
男女が比べられないのと同様に重要な「星」であるらしい。
地球の自然現象にはかり知れないほどの巨きな影響を与えている月。
少なくとも月の無い晩は真暗で海の干潮もなく、生命の誕生のミステリーに一役買っているのも「月」の存在とされている。
このミステリアスで美しい「夜月」という鑑賞対象物ももっと人間共に愛でられてしかるべきと思うのだけれど・・・。

ありがとうございました
M田朋玖



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